人間国宝を訪ねて⑬
室瀬 和美 漆芸/蒔絵

人間国宝を訪ねて⑬ 室瀬 和美 漆芸/蒔絵のメインビジュアル

人間国宝とは、重要無形文化財保持者のこと

室瀬の薬指が繊細なタッチで小刻みに粉筒(ふんづつ)を弾くと、その震動で金粉がふぁっと舞い落ちる。ティンカーベルが魔法の杖から振りまく粉のようだ。

粉筒は、筒の先に金粉の粒子に合わせた絹のメッシュを張った、蒔絵には欠かせない道具。古くは鶴の羽根軸から作られたものだ。今は入手が難しいため、葦などで代用することが多いが、室瀬は父が残してくれた羽根軸の粉筒を大切に使っている。

「細くて薄く、固くて軽い、という粉筒の『用』をもっとも備えているのが鶴の羽根軸。薄いから、内径と外径の差がない。わずかでも差があると、自分の思う文様の位置にピタリと蒔けないのです」

鳥軸の粉筒から金粉を蒔く画像と道具箱の画像
左/鳥軸の粉筒から金粉を蒔く。
右/道具箱や使いかけの漆にまで、美のかけらを感ずる。

父・春二は沈金を得意とする漆芸家だったが、病を得て3年半ほど仕事を離れたことがあった。やっと回復し、展覧会に向けて制作を開始するにあたり、室瀬が手伝うことになった。中学2年の夏休みのことである。父に教わりながら、汗だくで体力のいる作業に取り組んだ。

そうやって完成した作品が展覧会に並んだのを見て、いたく感動する。それまでも父の作品は展覧会で見て来たが、このとき初めて、父の仕事が、父のやりたかったことが、そして父のすごさがわかった気がした。これが、漆芸を目指す一番のきっかけになる。

大学進学を目前に、進路を決める際、漆芸の道に進みたいと思った。父親に相談すると、自分の進路は自分で決めるよう言われ、熟慮の末、覚悟を定めた。

同じ道、それも大変な道を歩むことに決めた息子に対し、父は何の感情も示さなかったが、ほんとうはとても喜んでいたと、後になって周囲から聞かされた。自分自身、一生の仕事にすると決めてから今日まで50年ほど、少しもぶれずに来られたことはありがたいことだと思う。

蒔絵螺鈿飾箱とアトリエで作成している画像
左/蒔絵螺鈿飾箱「実り」
右/アトリエの一角、窓に向かい座る。

技術は自分が教えられるから、いろんなジャンルの人が大勢いる中で学んだほうがいいと父に言われ、東京藝術大学に進む。漆芸を専攻する学生は3人しかいなかったが、大学はおもしろいところだった。父とは違う分野の先生たちとの出会いは刺激的でもあった。

また、父が、同級生や先輩・後輩と引き合わせてくれた。会う人、会う人、すごい人ばかり。音丸耕堂、高野松山、増村益城……。

中でも、漆の神様・松田権六は、「とんでもないお化けのような人でした。目の前に現れたときの迫力もですが、20歳そこそこの若造をつかまえて、5時間、6時間と漆の話をされるんです。そのエネルギーたるや、圧倒されました」。

以来、東京藝術大学の漆芸を学ぶ仲間と一緒に、人間国宝の先生方の家に入り浸るようになった。何とも贅沢な課外授業だが、その頃、教わったことは今も室瀬の財産である。

父と同じ沈金でなく、蒔絵をやろうと思ったのは大学生のときだった。「金粉が蒔かれると濃淡がついて、ぼわっと含みのある柔らかな表情が生まれる。それが美しいと思ったんですね。そういうのが好きだった」。

沈金は塗り終えた漆面を彫って金粉を入れていく技法だ。明快で、遠目からでもクリアな作品に仕上がる。父は沈金の名手だ。「どう逆立ちしても敵わない。それと、父にないものにチャレンジしたかった」ことも、沈金を選ばなかった理由の一つだ。

粉筒の画像
左/粉筒の後ろ(右手)から金粉を入れる。
右/粉筒。希少な鶴の羽根軸製と、葦でできたもの。

大学を卒業すると、父と2人で仕事場に籠もり、漆漬けの日々が続く。これが6年間、室瀬が結婚するまで続いた。会話なし、BGMなし。親と子、同じ漆芸家。どれほどの緊張感だったのだろう。

「父はとてもやさしい人で、ああしろ、こうしろとか一切言わない。何か聞いても80%答えは『いいんじゃない』なんです。でも、そのニュアンスはさまざまで、いかに汲み取るかなんです」

失敗は早めにする。そして、体で覚えていく。直接、言葉で説明したりしてくれなかったが、一番の技術的指導者は父だった。漆は、次のプロセスまで2日かかるが、若いときは待てなくて、翌日つい触ってしまうと、傷が入ったり、金粉が消えたり。

「『我慢すること』を漆に教わるんです。漆は絶対言うことをきいてくれませんから。急ぐと失敗する。ムリしたらしっぺ返しがくる。気候の変化などで毎日変わる漆の体調に、いかに自分を合わせていくかが大事。こんなにいろんなことを教えてくれる天然素材はないと思います。漆に教育されて、だんだん人間性もできてくる」

あるとき、やっとでき上がった作品を、最後の最後、洗っているときに水道の角にコンとぶつけて、金地から黒が出たことがあった。血の気が引いたが、父は落ち着いたもので、直し方を教えてくれた。「そういうときは、ちゃんと教えてくれましたね」。

3日ほどかけて繕い、出品することができた。そして、室瀬は失敗の乗り越え方を学んだのである。

動じないこと。絶対最後まで投げてはいけない。能力がなくても、あきらめない。一つでも、ともかく生かす。何が何でも、ものにすること。脱落はない……仕事に向かう姿勢はこうあるべきだ、と。すべて父の教えだった。

漆用の筆と作成してる様子と刷毛の画像
左/漆用の筆。ネズミの背中の毛でできている。
中/筆に漆をつけて模様を描き、乾かぬうちに金粉を蒔く。
右/道具箱の引き出しに収められた刷毛。

「百華」という作品を見せていただく。中央の花芯のような部分から、周囲に拡散していくような、逆に、中心に向けて集中していくような、吸い込まれそうな不思議な感覚に襲われる。花火のようでもあるが、宇宙的でもある。そうか、これは3D映像だ。

「蒔絵だからこその『動き』を表現した側面の技法は、歴史的に見ても前例はないんです」

蒔絵は平面のように見えるが、立体の作品であると室瀬は言う。といっても、ミクロンのレベルの話。貝の厚みが70ミクロンぐらい、金粉は1粒20ミクロンとか30ミクロン。貝を貼ったあとに、貝と高さを合わせるため、金粉を、それも異なる粗さのものを何層か入れていく。

できあがった作品の断面が見られるとすれば、金粉の層が幾重にも重なっているのである。こうして、究極の点描ともいうべき、室瀬独特の「ぼかし」が誕生する。

作風が大きく変わったのは40代後半のことだ。蒔絵の「新しい表現」は、学生時代からやりたかったことだったが、技術が伴わなかった。表現したいことと能力の均衡がとれてきたのがこの時期だった。自分が頭に描いたことが実現できるようになってくると、仕事はおもしろくてたまらなくなる。

「百華」の画像
「百華」。研出蒔絵の美しさに心打たれる作品。

同じ頃、北条政子の奉納とされる、三嶋大社蔵国宝「梅蒔絵手箱」の復元模造を作らせてもらうことになった。表現に「ぼかし」はないが、奥行き感がある。金と銀だけなのに、なぜ、こんなに魅力があるのか。鎌倉時代のものはおおらかな印象があるが、漆を何種類も合わせていたり、細かいところまで作り込んでいることがわかった。

「3年間、抱き抱えるようにして暮らしました。見て触って、にらめっこして……。そうしないと、このすごさはわからなかった。蒔絵は立体につけて初めて意味があるんだと知りました」

思い入れて作らなければ、人に魅力は伝わらない。もちろん、自分もこれまで思い入れを持って作っているつもりだったが、思い込んでいるだけだったかも。これをきっかけに「ものをつくる姿勢」が変わる。「僕らが教わっている伝統技術は、たかだか、この100年か150年のこと。それ以前の1000年の技術が消えちゃってるんです」。

しかし、作品は雄弁である。「梅蒔絵手箱」は、金粉の一粒一粒が語っていた。それから、蒔絵の原点ともいうべき、正倉院の「金銀鈿荘唐大刀(きんぎんでんそうのからたち)」の鞘を調査・部分復元したときにも、金粉の力に驚いた。

単純な模様なのに、あきない。それは、ぎざぎざの金粉が不揃いに散りばめられていることによるものだった。粉筒を使わず、大小混ざったものを大胆に落としていったものではないだろうか。

時代椀大観と下地を塗って乾かしている様子と室瀬和美さんの画像
左/松田権六らが編纂した愛書『時代椀大観』(寶雲舎)より。
中/下地を塗ったらこんな風に乾かす。
右/漆の話に熱がこもる、室瀬和美さん。

いずれにしても、過去の作品の声なき声を聞くことである。ただし、既成概念を持たず、自分を真っ白にして立ち向かわないと、作品は何も語ってはくれない。

こういう姿勢をつくることを教えてくれたのは、松田権六だった。言われたときはイメージが浮かばなかったが、今になってよくわかる。自分を初期化すると、目からウロコが落ち視界が開け、「こうするとおもしろい」「こんなこともできるじゃないか」と見えてくる。

日本には、漆芸という素晴らしい工芸があることを、日本も含めた世界中の人に、もっとわかってもらいたい。漆の木という希有で上質な自然素材が日本という気候に生じたこと、そして、その漆を使った作品が1000年以上使っても耐え得るということ。そんな工芸の素晴らしさを、日本からもっと発信するべきではないか。

そして、世界中の人たちに、見て触って口に当てて、心をうるおわせてもらいたい。漆の語源は「うるわしい、うるおう」なのだから。心が癒されるのは、美の究極でもある。大げさにいえば、21世紀の美は、そこに到達すべきだ。

工芸の役割はまだまだたくさんある。室瀬に託された使命は大きい。

室瀬 和美(むろせ・かずみ)
1950年東京都生まれ。1975年日本伝統工芸展初入選。1984年第1回個展。1991年目白漆芸文化財研究所開設。漆芸文化財保存に従事。2008年「蒔絵」で人間国宝に。

photographs Hiroaki Ishii
text Michiko Watanabe
お帳場通信 2014 秋号 掲載