人間国宝を訪ねて⑯
玉川 宣夫 鍛金/金工

人間国宝を訪ねて16 玉川 宣夫 鍛金/金工のメインビジュアル

人間国宝とは、重要無形文化財保持者のこと

工房脇に、部屋とはいえないほどの小さなスペースがある。ふとんがやっと敷ける幅(実際、ふとんも敷いてある)。左手の本棚には、びっしりと本が並ぶ。ここが、玉川宣夫の憩いの場である。工房で根を詰めて30分仕事をして疲れたら、ちょっと横になって30分昼寝をする、あるいは本を読む、そんなコーナーだ。

本棚に並ぶ本は多彩。創造のためのインスピレーションの源か、少年のような探求心の表れか。各地の山のガイドに、きのこの本に野鳥の本、『138億年宇宙の旅』『働かないアリに意義がある』『恐慌の歴史』『超弦理論入門』に小説など、興味の幅が広すぎる。

工房は片側が工房脇の庭に通じ、もう片側も大きく外に開いている。「北側からの柔らかな自然光が一番いいんです」。

制作中の花瓶の画像
左・右/制作中の花瓶(取材当時)。斑紋が現れてきた。

玉川は中学2年の春、「大人の事情」により、新潟・燕で江戸時代から続く鎚起銅器の名門〈玉川堂(ぎょくせんどう)〉に、次男として養子に入る。「おまえがいい子にならんと、おらが困る」と実母がいい聞かせたという。「だから“いい子”になりました」と玉川。

戦後間もない〈玉川堂〉は徒弟制度が残る、まったくの職人の世界。遊んでいても、手が足りないと駆り出された。中学を出ると秋田の工芸学校へ。卒業後、〈玉川堂〉に正式入社して、職人の道を歩み始める。

同時に、定時制高校にも通うのだが、「夜9時過ぎに帰ると、まだ、兄弟子たちが仕事をしてるんです。だから、手伝わざるを得ないでしょ。当時は、つくればつくるほど売れる時代だったですからね。12時間働くなんて普通でした」。

地金を丸いドリルで削り、薄くした画像
左・右/地金を丸いドリルで削り、薄くしていく。

職人を育てるシステムも完成していて、上下関係も厳しかった。弟弟子たちは同じことをコツコツやり続ける、1週間でも10日でも。兄弟子からいわれるままに、ひたすら続ける。

年季が明ければ通いになるので、多少は自由な時間も持てるが、内弟子には四六時中、監視の目が光る。休みは盆と正月のみ。玉川は内弟子ではないので、わがままは通ったが、職人としての修業はまじめに取り組んだ。

ひと通り、なんとか仕事がこなせるようになると、外に目が向くようになる。土地柄か、燕には大勢の金工作家がいた。中には日展に入賞する人もいる。作家という道もあると知る。美術雑誌を見て憧れていた関谷四郎(のちに重要無形文化財「鍛金」保持者)に手紙を書き、弟子を志願したことも。

「職人の世界に嫌気がさしていたこともあって、ある日、オヤジとケンカして家出しました」。そして、「一度、来てみなさい」といわれていた関谷のもとへ。ここで2年間、内弟子生活を送る。昭和38年(1963年)のことである。

関谷の家には兄弟子(須戸章太郎)がいたのだが、数年とはいえ、職人として技術を習得してきた玉川から見ると、「こうしたほうがいいのに」と思うことがあって、あるとき、つい口を衝いて出てしまう。すると即座に関谷から、「腕自慢しない!」と注意を受ける。

接合一輪挿と木目金火舎香炉の画像
左/接合一輪挿 径12×高さ14.5cm
右/木目金火舎香炉 径8.5×高さ7.5cm

「ズシンと来ましたね」。職人の世界が嫌で飛び出したのに、職人的なモノの見方がしみついている自分に驚いた。2年後、通信教育で勉強していたデザインの夏期スクーリングを受けたのち、「先生においとまして」新潟へ戻り、改めて〈玉川堂〉に入り直す。そして、常務、専務として、社長である兄をサポートしていく立場となる。

それからの玉川は、職人としての商品づくりが70%、作業場の監督、水質汚濁防止などの安全推進員といった社員としての仕事10%、大学の非常勤講師や保護司の仕事10%、作品づくり10%という生活になっていく。

帰郷して4年後の昭和44年(1969年)、伝統工芸新作展、日本伝統工芸展と続けざまに入選。作品づくりに気合いが入る。ところが、それからが入選したり落ちたりの繰り返しで、なかなか安定しない。この状況を打破するには、燕の技術ではなく、何か新しい技法で勝負しないと、と思っていたとき、日本金工作家協会が出した『彫金・鍛金の技法』という本で、三井安蘇夫の著した「木目金」についての論文と出合うのである。

木目金花瓶と火舎木目金銀香炉の画像
左/木目金花瓶 径18×高さ17cm
右/火舎木目金銀香炉 径7×高さ6.5cm

「木目金」は、江戸時代初期、秋田の正阿弥伝兵衛が考案したグリ彫りの鍔(つば)の細工が嚆矢といわれる。グリ(倶利とも屈輪とも書く)彫りとは、銅、赤銅などの色の異なる金属を幾重にも重ね合わせて接合し、唐草文や渦巻文を彫り下げる技術で、彫った部分に金属の層が紋様となって現れるのが特徴だ。

それをさらに発展させ、金属の色の違いを利用して木目のような紋様を浮かび上がらせたのが「木目金」である。主に刀装具に用いられたが、幕末には煙管や矢立などの小物にも応用された。明治になって廃刀令が出されると、隆盛を誇っていた技術も衰退。のちに復興するも、研究者が亡くなると、またもや廃れてしまう。いってみれば、幻の技術であった。

木目金は秋田が発祥。秋田の学校で学んだ玉川と木目金の不思議な縁。しかし、技術は三井の著した論文だけが頼り。そこから、試行錯誤が始まるのだが、玉川にはいつかやってみたい仕事があった。

「先輩たちから、昔は鉱山から持ってきた塊をトッテンカン、トッテンカン叩いて板にしていたと聞いていて、木目金は簡単にいうと、種類の違う金属を重ねて塊にして炉の中で熱し、板同士を密着させるために木槌で叩き、それをスプリングハンマーでさらに薄く叩いて地金の板をつくる。塊を叩く。これだ!と思ったね」

記録メモと失敗作の画像
左・中/銀、銅、赤銅を互い違いに積み重ねて分厚い塊をつくり炉で溶着。その記録メモと失敗作。
右/花瓶の制作中に途中で破れ、きのこ形のうつわに。

玉川が木目金に用いる金属は、銀、銅、赤銅の3種である。作品によって重ねる順番を決め、何枚重ねるかを考える。準備に要する時間は半端ない。

たとえば、銀10枚、銅7枚、赤銅4枚の計21枚を重ねるとする。ぴったりと接合させるために、まず、歪みが出ないよう焼なましを行う。さらに平らに叩いてから、ひたすら研いでいく。1枚2時間として計42時間。それを研ぎの目を換えながら1週間以上かけて研ぎ上げ、わずかな錆も出さないよう、丁寧に錆取りをする。

準備のできた金属を重ね、ステンレスの板で囲んで炉に入れて熱する。「いろいろやってみたけど、コークスだけだと火力が強すぎるから、炭と半々にしています」。火のそばにいて、銀の融ける色で頃合いを判断する。

「真っ赤なうちに木槌で叩いて溶着させるんだけど、これが最も神経を使う作業。打ちながら、『いい子に育ってくれたらな』と行く末を考えるんです」。ここで失敗したらパーになるところから、この作業を「おしゃかづけ」とも呼ぶそうだ。

こうしてできた地金に木目を出していく。先の丸いドリルで表面を削るのだが、「力加減だけで、微妙な深さを狙います」。それから打ってはなまし、を繰り返して、徐々に斑紋を出していく。

厚みが薄くなるにしたがって、中にゴミが入っていたり、空気が入っていたりするのがわかってくる。「それが困るんです。斑紋もだいたい想定しているつもりだけど、意図しない偶然性もある。どう出てくるかがおもしろい」。

道具と玉川 宣夫さんの画像
左・中/工房には、さまざまな道具がびっしり。
右/「塊を打つことは魂を打つこと」と、玉川宣夫さん。

木目金の技巧をわがものとしてからの玉川の活躍は、目覚ましかった。やがて53歳のとき、息子たちの世代になったのを機に退社。独立して作家活動に専心する。

ひとつの作品をつくり上げるのに要するのは最低3カ月。4~5カ月かかることも、途中であきらめることもある。金属を重ね合わせる段階で失敗することもあれば、薄く叩いていくうちに、破けることも多い。「破けたら補修する。何ひとつムダにしない。それが職人の習い性というもの。補修しない作品はほんの一部です」。

毎週末、玉川は四駆のマニュアル車を駆って山へ向かう。デザインは「適当」だと笑うが、自然の形からインスパイアされることが多いという。たとえば、木の実や卵。重労働ゆえ、今は休み休み3~4時間手を動かすのが精一杯。それでも塊を打ち続ける。淡々と、変わることなく。


玉川 宣夫(たまがわ・のりお)
1942年新潟県生まれ。13歳で〈玉川堂〉5代目玉川覚平の養子となり、鎚起銅器の職人としての道を歩みながら、鍛金家・関谷四郎の内弟子となる。1982年「木目金花瓶」で日本伝統工芸展NHK会長賞。2010年重要無形文化財「鍛金」保持者(人間国宝)に認定。現在、日本工芸会参与、燕市文化財調査審議会委員。

photographs Naruyasu Nabeshima
text Michiko Watanabe
お帳場通信 2021-22 秋冬号 掲載