人間国宝を訪ねて⑰
藤沼 昇 竹工芸/木竹工

人間国宝とは、重要無形文化財保持者のこと
2005年、大田原市在住の竹工芸家・勝城蒼鳳が重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されたとき、藤沼昇は郷土の誉れと誇らしく思った反面、ちょっぴり落胆もした。同じ市から二人も人間国宝が出ることはないと思ったからだ。
しかし、すぐ思い直す。自分は何を考えているのだ。人間国宝がおまえの最終目的か。倦(う)まず弛(たゆ)まず、我が道を行くことこそ、大事なことではないか。昨日より今日、今日より明日、少しでもいい作品を生み出していこう。
2012年、思いがけず人間国宝に。同じジャンルで同じ市から、二人も人間国宝を輩出するのは初めてのことだった。「いや、驚いた」。ありがたいと素直に思った。

右/藤沼昇さん。竹の声に耳を傾け、黙々と編み進める。
藤沼には、一時期、まったく評価されない時期があった。悩んだ。なぜ、入選できないのか。なぜ、称賛されないか。内省もした。人の意見も聞いた。いろいろな本も読んだ。心の本、宇宙の本、日本文化の本……。
でも、結論は出なかった。結局、自分ではどうにもならないことがあるのだと言い聞かせるしかなかった。それだけに人間国宝認定は望外の喜びだった。くさらず続けていてよかった。
藤沼は、子供の頃から竹と親しんできた。大田原近辺の子供たちにとっては、それはごく自然のことだった。竹林も多く、竹の質もよい。竹工芸が昔から盛んな土地柄である。ただ、藤沼の場合、大工だった父から、道具の使い方の手ほどきを受けていたこともあって、その「技術」は他の子供とは一線を画していた。そのうえ、工夫をすることも忘れなかった。
小学生の頃、普通の竹とんぼではあきたらず、威力を持たせようと重石をつけ、危うく人を傷つけそうになったため、学校で禁止されたりもした。子供時代の武勇伝である。
兄もまた、子供の頃から器用で、中学生のときには、別に習ったわけでもないのに、針金を六角に編んでカゴを作り、先生を驚かせた。竹カゴを編ませても群を抜いて巧みで、藤沼が人間国宝に認定されるまで、「オレのほうが上手だ」と言いはっていたそうだ。

中学を出ると、道具や機械が好きだったので、近くに新設された工業高校に進む。時は高度成長期。日本人の生活に大きな変革がもたらされた時期だった。欧米に負けるな、追いつき追い越せ、と日本人ががむしゃらに働いていた時代。物質的に豊かになれば幸せになれると、多くが思い込んだ時代でもあった。
高校卒業後は、いずれは海外で暮らしてみたいと、外国資本の会社へ。仕事で海外に出ようという魂胆だった。そんなとき、ヨーロッパを訪ね、カルチャーショックを受ける。何百年も変わらぬ姿を留める石の文化を目の当たりにし、紙と木の文化で育った我と我が身を振り返った。また、自分の国、自分の職業に揺るがぬ自信と誇りを持つ人々にも刺激を受けた。海外に目を向けている場合じゃない。日本にもいいものはたくさんあるはずだ。
日本人とは何か。日本人のアイデンティティとは何か。それまで深く考えずに過ごしてきた自分を恥じた。「日本人は、意外と日本のことを知らない」。これは、海外で暮らしたことがある日本人の多くが自覚することでもあるのだが。

中/縁は籐で編む。
右/根曲竹。
藤沼はそこから先が常人とは違っていた。もっと日本を、そして日本文化を知ろうと、カルチャー教室に入るのである。書道、陶芸、茶道、能面彫り……と、片っ端から勉強を開始する。その一つが竹工芸だった。講師は、創作活動の傍ら、地元の後継者育成に多大な尽力をしていた八木澤啓造である。
最初は色紙掛けを習った。瞬く間にマスターすると、次からは教室に来る生徒さんたちの手伝いをするまでに。結局、教室レベルでは飽き足らず、自分の描くイメージの作品を作るために、竹材の選定から拭漆仕上げまで、基本的な技術を八木澤のもとで学ぶことになる。日本人としてのアイデンティティを獲得するための勉強が、いつの間にか自分の人生を切り拓く道と重なっていく。
八木澤のもとで修業を始めてから一年半ぐらい経ったとき、「もう、ここに来なくていい」と、師から告げられる。もう、教えることはない、と。心の準備ができていないまま、突然の独立。30歳だった。

これより少し前、八木澤のもとで修業を始めた頃に、藤沼は一冊の本に出会っていた。『生野祥雲斎竹藝作品集』(講談社刊)である。生野は大分の人で、竹工芸家で初の人間国宝となった人物だ。この豪華本から放たれる竹工芸の圧倒的な存在感、芸術性に心が震えた。「昔からある技法を使っているんだけど、まさしくアートなんですね。衝撃を受けました」。
この作品集は、写真の撮り方も素晴らしかった。一度は写真家になろうかと思っていたくらい、写真にのめり込んだからこそ、よくわかることがある。竹の編み目が、光を取り込むことで、あるいは光を落とすことによって創り出す、豊かな表情までも、見事に写し出していたのである。
そして、ここからがまた、藤沼の常人らしからぬところなのだが、生野の作品を「すごい」とは思うが、「自分にできない」とは思わなかったというのだ。「もちろん、あきらめなければ、ですけどね」。すぐにはできないかもしれないが、自分なら必ず作れる。この「不思議な」自信が、藤沼をいつも奮い立たせる。

中/漆を塗る部屋。孟宗竹で花入を制作中(取材当時)。
右/孟宗竹の形をそのまま生かした花入。
竹で作られたものは、ざるやかごなど、日用雑貨と同等の見方をされることが多く、「技術」の高さは評価されるものの、芸術的観点から見られることが少なかった。あくまで「職人仕事、竹細工」と、アートより一段下に見るきらいがあった。
しかし、生野の作品は誰が見ても、ぶっちぎりのアートだった。自分の目指す道が見えた気がした。「これに勝てるものを作りたい」。そして、独立後、「想像に満ちた創造」を始めるのである。
1997年、日本橋三越本店で個展を開いたとき、思いがけないオファーがあった。アメリカのアートのバイヤーが作品を欲しいというのである。それを皮切りに、作品は海外へと渡り始めた。
日本よりも早く、海外でアートとして認められる。シカゴ美術館、デンバー美術館、大英博物館……。海外の人たちは先入観なく作品を見て、日本人ならではのアート作品に憧れとリスペクトを持ってくれる。藤沼の作品は高く評価されたのである。

中/根曲竹かご「春潮」
右/文化論や子供時代の思い出など、話は多岐にわたる。
現在、藤沼が使うのは、主に近隣でとれる真竹(まだけ)、根曲竹(ねまがりだけ)、孟宗竹(もうそうちく)、女竹(めだけ)の4種。竹の特質を十分に知り尽くした上で、多彩な編組(へんそ)技法を駆使し、イメージ通りの作品へと昇華していく。
竹を裂いて、重ねた状態で編む束ね編みで、強靱でダイナミックな面を表現した作品もあれば、細かく裂いて精緻に編み込んだ網代で、竹のたおやかさ、雅な面を表現したものもある。同じ作家が作ったとは思えないくらい、幅広くバラエティーに富んだ作品が生み出される。
平成を迎えた頃、群馬で活躍していた竹工芸の人間国宝・飯塚小玕斎(いいづか・しょうかんさい)から、お小言をくらう。「伝統的な技法もいいが、新しい時代になったんだから、いい加減に新しいことをしたらどうだ」と。
そこで、竹の強靱さと繊細さを併せ持つ、ダブルフェース(二重構造)の作品を考え出す。外側の力強い束ね編みと、内側のレースのような繊細な編みの合体。まるで、陰陽の二気ががっちりと絡み合い、その中に森羅万象を抱えているように思える作品だ。見る者の角度によって、また光の入り方によって、さまざまな表情を見せる。
最初に、内側になる細かい網代を編む。これ、洋服を作るときの人体と同じだという。内側部分が編めたところで、漆を塗って形を固める。竹は戻ろう戻ろうとする働きが強い。その戻ろうとする働きを漆で制御するのである。
そして、上面の編みっぱなしの部分を好きな形にカットし、網代の上から、束ね編みを施す。束ね編みは、2枚束ねて編むこともあれば、7、8枚重ねることもある。竹はなかなか思い通りになってはくれない。それを力でねじ伏せようたって、そうはいかない。
竹にも“意志”がある。だから、自分のほうから歩み寄って、「お願いだから」と、なだめすかして曲がってもらう。その息が合って初めて、編み進める。
藤沼は今年、古希を迎える(取材当時)。だが、彼の辞書に「老成」という言葉はない。少年のような瑞々しい感性で、常に前へ前へと突き進む。いたずらっ子のようなお茶目な気持ちを失わない。竹は一晩で80センチも伸びるという。そんな竹に負けない勢いがある。
文化庁からは後進の指導を、といわれているとか。それも、手取り足取りではなく、よい作品を作って見せることだ、と。よい作品とは何か。竹の本質を熟知しているからこそ、竹でここまでやれるのかという作品。それはもう、藤沼が十二分にやっていることである。
藤沼 昇(ふじぬま・のぼる)
1945年栃木県大田原市生まれ。1986年第33回日本伝統工芸展で日本工芸会会長賞受賞。1992年第39回日本伝統工芸展東京都知事賞受賞。2012年「竹工芸」で重要無形文化財保持者(人間国宝)に。
photographs Naruyasu Nabeshima
text Michiko Watanabe
お帳場通信 2015 夏号 掲載