2021.4.5 UP
伊勢丹新宿店のフレッシュマーケット(生鮮食品)には、ファーマーズクリエイションという野菜コーナーがあります。このコーナーのリーダー的存在が、2011年に販売開始した〈エビベジ〉です。多くの人に<エビベジ>の名で親しまれている海老原ファームの野菜は、いったい他と何が違うのか?春の農園を訪れました。
栃木県と茨城県の境目、古くから下野(しもつけ)の国として知られる土地に、〈エビベジ〉を生産する海老原ファームはあります。親の時代のかんぴょうと米農家から野菜を志したのが、海老原ファームを創業した海老原秀正さんです。
海老原秀正さん。「美味しい野菜は食べた時、記憶に残る」が持論。
海老原ファームに着くと、元、田んぼという真っ平らな土地に、40棟はあるというハウスが点在していました。ここで栽培されているのが〈エビベジ〉です。今でこそ〈エビベジ〉は野菜や食関心の高い人の中で知られる存在ですが、創業からしばらくは野菜を知ってもらうのにも相当な努力があったのでは。そう話を向けると海老原さんは「営業はね、したことないの。うちの営業マンは野菜。野菜食べると人が来てくれるんだよ」。
ウェルカムフルーツのように差し出されたのは採ったばかりのニンジン。自ら土を洗い、訪問したスタッフに一本ずつ配りながら「缶コーヒー1本と、このニンジン1本だったら、ニンジン買って欲しいよね」と呟きます。
フレッシュマーケット担当の川合卓也バイヤー。海老原ファームには何度も訪れている。
出荷用に仕分けをする部屋では、土のついた野菜が丁寧に拭かれて梱包されていました。
「水で洗うと鮮度がどんどん落ちてしまうので、水洗いはせず出荷しています」と海老原さん。
そして一同、海老原さん親子に誘(いざな)われてハウスに向かいました。
ハウス栽培というと単一の野菜を大量に一斉に、加温により短期間で効率よく生産収穫するのが一般的。しかし、海老原さんのハウスは真逆。中では多品種の作物が栽培されていました。案内された最初のハウスには、わさび菜、かぶ、ちぢみ小松菜、水菜、赤からし菜など。
約100種類の野菜を、少量多品種で栽培している。
「うちのハウスの一番の目的は、雨よけ。水をとにかく与えすぎず育てるの。そうすると野菜は自分で水を探して土の中に深く根を張りながら、じっくり育つ。野菜によっての水加減の調整。これがうちの野菜作りの唯一最大の秘密かな」
土埃が立つほど乾燥した畑には、土にへばりつくように野菜が生え、その脇に根に水を供給する灌水用の青いチューブが引かれています。この日は春先なのに20度を超える暑さ。
「これだけ暑い日は、さすがにお水あげるんですよね」と聞けば、「いや、大丈夫。きゅうり以外は、種蒔き、発芽時にたっぷり、あとは収穫前と水をやるのは大体3〜4回ぐらい。量は野菜により調節します。そうすると、野菜は一生懸命自分の中に水を溜め込んで、みずみずしくて香りもいい野菜になります」
ハウスの中では複数の野菜が共生し、所々穴ぼこのようにぽっかりと土が見えています。「あいているところに、前に植えていていた野菜と違う科の野菜を植えていくから自然に輪作になります」。
有機栽培の農家では計画的に輪作し、土壌の栄養素が偏らないようにします。海老原さんの畑は特に有機栽培は謳ってはいませんが、ほぼやり方は同様。なぜ栽培方法を表示しないのか聞くと、「栽培方法や品種よりも優先しているのは“美味しさ”だから」だと。続けてボソッと言われたのが次の一言でした。
「美味しい野菜は、収穫期が短いのが多い」
目の前のスナップエンドウは、まさにこれからの赤ちゃんサイズがたくさんなっています。
「マメ科は今月末(4月末)から5月の2ヶ月だけしか収穫できません。もっと長く収穫できる品種もあるけど、いろいろ試したらこれが美味しかった。収穫期間は短いけれど、食べた人の反応がとってもある野菜の一つ。アスパラガスも、うちの場合、収穫期期間は3〜5月で終わりです」。
〈エビベジ〉がその愛称で呼ばれるようになって7年くらい。主な販売先は、レストランやホテルレストランですが、小売で唯一と言って良いのが伊勢丹新宿店。きっかけは、東日本大震災でした。その少し前の2008年、海老原さんは東京でビジネスコーディネーターをしている「ギリークラブ」渡辺幸裕さんと出会います。渡辺さんは、栃木県のトマトを見るために現地を訪れたのですが、県の農協担当者に「ちょっと見て欲しい」と連れて行かれたのが海老原ファームでした。渡辺さんは当時の印象を「野菜作りは上手いけど、食べ手知らずだった」と話してくれました。海老原さんと野菜をもっと知らせたいと、色々なところに繋いでいた矢先、震災が起きました。
震災で風評被害に合った海老原ファームをなんとかしたいという渡辺さんと、震災の風評被害の力になれることを探していた伊勢丹新宿店が繋がり、この時初めて海老原ファームは伊勢丹新宿店に、というか小売店での初めての販売をしました。店頭で、お客様とたくさん話をした経験は衝撃的で、新しい野菜作りに挑戦するきっかけになったと海老原さんは話します。
「カラフルな色の野菜も、お客様に教えられたんです。美味しい食べ方もお客さんが知っている。うちの野菜を使っている人同士が勝手に繋がって盛り上がっている。レシピも勝手に上げてくれる。<エビベジ>の野菜は伊勢丹新宿店のお客さんの舌が作った、ぐらい書いちゃっていいと思うよ」(書きました)
取引先の料理人の意見も貴重な意見。最近は「ルッコラの花が欲しい」とか「小さなラディッシュが欲しい」などの声も聞かれ、そういった要望には応えられる限り、まずはやってみる。その繰り返しが〈エビベジ〉の特色の一部になっています。
料理人の希望で菜花を咲かせて収穫しているルッコラの花。黄色い花は原種のセルバチコ。白い花は改良品種。
「そういえば、これは川合さんと作った野菜だよね」
と海老原さんが指差したのは、表面がうっすらとピンクに色づいたもものすけカブ。ちょうど一年前のぬか床企画で、「伊勢丹新宿店のぬか漬けだから、普通はこういう野菜でぬか漬けやらないよねという野菜でやりたかった」と川合バイヤー。
息子の寛明さんが土から引き抜いたもものすけカブには、ものすごい存在感の凛々しい根っこが付いていました。
2020年3月に伊勢丹新宿店に初めて出荷したもものすけカブ。
水を探して土を直進したカブの意志を感じる姿に思わず声が漏れます。
「これがうちの野菜らしいところ。このカブ、皮を剥くと花みたいになるんだよね」
果物の皮を剥くようにすると、白い果実のようなカブが現れる。皮がまるで花弁のよう。
早速皮を剝きだす伊勢丹新宿店のスタッフたち。カブを齧ると、しっとりのようなねっとりのような食感は、洋梨などと似ています。
海老原さんの息子さん、寛明さんと伊勢丹新宿店スタッフ。
海老原さんを現在支えているのは、奥様と息子の寛明さん(ご家族)、そしてパートタイムのメンバーたちが全部で16名ほど。その全員がエビベジファミリーです。種蒔きや苗の植え付けは、奥様の智子さんを中心に女性陣が担い、畑づくりと野菜作りは海老原さん親子が、収穫と配送は女性陣が担当しています。機械を使わない人海戦術の仕事を、日々チームで行っています。
エビベジファミリー。海老原さん(左から3番目)の左が奥様の智子さん。女性スタッフの指導役を担う。
東京農大を卒業してすぐに家業に入った寛明さんは父の片腕。「小さな頃からうちの父は変わっていると思ってました(笑)」と言いながら、実に親子仲の睦まじさを感じます。「もっともっと〈エビベジ〉を知ってもらえるようになりたいし、色々な人からこんな野菜を作って欲しいと言われるものに応える」が今後の目標です。
海老原寛明さん。日本酒〈獺祭〉の原料米、山田錦の生産も新たにグループを作って行っている。寛明さんたちのグループの酒米醸造元の行った「最高を超える山田錦プロジェクト」で2019年グランプリ、2020年準グランプリを受賞。
今回のコロナ禍は、海老原ファームにとっても深刻な影響を与えました。野菜は、工場のように運転を止めて商品作りをストップすることができません。売り先を失っても、野菜は成長して収穫の時を迎えます。多くの野菜がハウスの隅で萎えて行きました。そんな時に勧められて始めたのが、一般顧客向けの野菜ギフトボックスです。家での調理を楽しむ人々が増え、〈エビベジ〉の存在は、新たな人々に口コミで広がり始めました。
海老原ファームを訪問して、カスタムメイドという言葉が頭に浮かびました。洋服を誂えるように野菜を誂える。そうは言っても、言われたように作るのは実は簡単ではありません。腕や経験だけではなく、おそらく勘所や好奇心が肝要なのだと思います。従来のひたすらに畑と向き合う篤農家のイメージが海老原さん親子には全くありません。海老原さんたちが見ているのは畑の先のお客さまの「美味しい」という顔。取材中「美味しいと言われたい」と海老原さん親子が何度呟いたことか。それは「美味しい」の言葉に何度も勇気づけられてきたことの裏返しであり、知らない美味しさがあるならば応えたいという、飽くなき好奇心を生み出す魔法の言葉なのでしょう。実は、お客様や料理人たちからの「美味しい」という言葉が、〈エビベジ〉の美味しさの一番の秘密なのかもしれません。
Text : Isetan Food Index 編集部
Photo : Kenta Yoshizawa