2021.7.31 UP
コケモモのパイとか、黒スグリのジャムとか、ショウガ入りクッキーとか、子どものころに本のなかで出合った印象的な響きの飲食物は多い。私にとって、レモネードもそうだ。夏の暑い日、玄関に続く外階段から見える、見渡すかぎりの草原は夕日で金色に染まっていて、冷えたレモネードを入れたジャグもコップも表面に汗をかいている。そんな光景とセットになって記憶している。
幼いころに本を読むことで味わったものは、大人になって実物を食べても飲んでも、ぴんとこないものが多い。レモネードも私にとってはそうだった。そもそも、レモンスカッシュはたいていどこのカフェにもあるけれど、レモネードはあんまり見かけない。はじめて飲んだのは大人になってからだが、あの、外階段に座って飲む架空の記憶のほうが強くて、実際に飲んでみても、「そうか、これがレモネードか」というような、あいまいな感想しか持たなかった。
レモネードはもともと、レモン果汁を水やお湯で割った飲みものの名称らしいけれど、提供するお店によってさまざまだ。炭酸入りもあるし、ホットレモネードもある。甘いものもあるし、甘さのないものもある。たぶんそのせいで、レモネードと聞いたときに、「あの味」と固定されたイメージが浮かばず、私は未だに、かつて読んだ架空のレモネードを思い描いてしまう。
うつくしい瓶に詰まった〈エリクシア〉を見たときは、お酒か高級水かと思った。フランスで150年の歴史を持つ老舗で作られているという。瓶に詰まった液体は透明に近い。だから、開栓したときに漂うレモンの香りに、意外な感じがする。
このレモネードは私の記憶にある「読んだ」レモネードの味にかなり近い。ぱきっとした炭酸、甘いけれど、べたついた甘さではなくてすっきりしている。何よりレモンの香りが爽快だ。一口飲むと、あのうだるような夏の草原の景色が広がる。実際に見たわけではないし、子どもの私が読んだ本のなかのレモネードは、炭酸入りだったかもさだかではない。でも、なんだかこの味、なつかしいなあと思うのだ。
もしかしたらそれは、このレモネードが長い歴史を持っているからかもしれない。もう100年以上も市販されているのなら、この味こそが元祖レモネードと思っている人が、古今多くいるはずだ。その「これぞレモネード」という多くの人のお墨付きが、この飲料には染みついているのではないか。レモネードになじみのない私が、なつかしさなんて覚えるのは、やっぱり長い歴史が反映されているからだと思う。
大人になってからも小説のなかでレモネードに出合うことは多い。印象深いのは、レイモンド・カーヴァーの、そのまま「レモネード」というタイトルの詩のような短文だ。これは、子どものころに読んだ幸福なレモネードとは異なって、かなしくて残酷なできごとに寄り添うレモネードである。それでも、どんなかなしみも残酷さもけっして汚すことのできない、レモネードの清冽さが際だった名文だ。そう、レモネードはきよらかな飲みものなのだと、このフランスからやってきたレモネードを飲んで、あらためて思う。
はじめて出合ったレモネードが、物語のなかだった、という人は、私の同世代にはけっこういるのではないか。もしこの涼やかな瓶に詰まったレモネードを贈ったら、彼ら、彼女たちも、やっぱり架空の記憶にある夏の日を、思い浮かべて、それとともに味わってくれるだろうか。
〈エリクシア〉オーガニックレモネードナチュール(フランス製/750ml)1,296円
伊勢丹新宿店本館地下1階 プラ ド エピスリー
フランスの"秘境"と称され、美しい湖や滝などが多数ある東部のジュラ地方で1世紀以上製造されるレモネード。地の利を活かした透明度の高い水を使用し、着色料、香料、保存料はフリー。同国の農務省が、オーガニック材料95%を含み、最低で3年間の有機農法を実践した製品に与える「ABマーク」を取得。
角田光代
かくた・みつよ/作家。
005年『対岸の彼女』で直木賞、2006年「ロック母」で川端康成文学賞、2007年『八日目の蟬』で中央公論文芸賞をはじめ、数多の文学賞を受賞。近著は5年にわたって現代語訳に取り組んだ『源氏物語 上・中・下』(河出書房新社)。
写真:福田喜一
スタイリスト:西﨑弥沙