2022.4.1 UP
かわいらしいチューリップの姿に、顔がほころぶ今日この頃です。弥生さんは、引っ越しのご準備でお忙しくされていることと思います。振り返ると、あの日は私にとって、運命的な出会いでした。
実は、その頃ちょっと落ち込む出来事があって。なのであの日も、ずっと下を向いて歩いてました。夏の終わりの、木曜日の朝でした。
すると、どこからか剪定鋏(せんていばさみ)の音と共に、爽やかな香りが流れてきたんです。地面にしゃがみ込んで、熱心に植物のお世話をしていた弥生さんと目が合ったのは、そんな時でした。
こんにちは、と私を見上げた弥生さんのまぶしそうな笑顔、今でも忘れることができません。
私、あの時よっぽど思い詰めた顔をしていたんですよね?弥生さんが、ささっと周りの草花を集めて、よかったらどうぞ、ってハーブのブーケを私に渡してくれたんです。お茶にしてもいいですし、お風呂に浮かべてもいいですから、って。それから、毎週木曜日にここで行われているボランティアによるハーブの会について教えてくださいました。
私、以前から植物には興味があったのですが、マンション住まいだし、庭仕事するのをずっと諦めていたんです。でも、その時弥生さんがくださったハーブのブーケを家に持ち帰ってコップにいけたら、なんだかとっても心地のいい香りが広がって、私、植物の精にそっと抱きしめてもらったような気持ちになりました。それですぐに連絡し、自分も木曜日のハーブの会に入会したんです。
それからは、毎週木曜日になるのが待ち遠しくて。弥生さんが、親切に、新参者の私にもハーブのイロハを教えてくださったおかげです。
太陽の下で土に触れ、弥生さんとおしゃべりをしながら庭仕事に精を出すうち、健やかな心を取り戻すことができました。弥生さんには、どんなに感謝 しても足りません。
なので先月、弥生さんが引っ越しをするのでハーブの会をやめられると伺った時は、とてもとても悲しくて。でも、弥生さんはご両親と一緒にご実家で暮らすと、決められたんですものね。これは、私からのささやかなはなむけです。弥生さん、砂糖を使ったお菓子はあまり召し上がらないとのことなので、ドライフルーツの杏にしました。あの時、ハーブのブーケをくださったお礼です。
いつか、ハーブの会の帰り道で、弥生さんおっしゃってました。厳しい冬を乗り超えてこそ、花の美しさが際立つんだって。
弥生さんのこれからの人生が、美しく輝き、実り多きものとなりますように。そしていつか、笑顔で再会できますように。これからも、お互い、緑の指を育んでまいりましょう。
〈銀座あけぼの〉生杏(134g/1袋)1,404円
伊勢丹新宿店本館地下1階 甘の味
甘みと酸味のバランスが良いブレンハイム種の杏。食べやすいように、ひとつひとつ手作業で硬い部分を取りのぞいている。噛みしめるほどに爽やかな甘酸っぱさが広がる。
※入荷状況により販売できない場合がございます。
小川糸
おがわ・いと/作家。
2008年『食堂かたつむり』でデビュー。多くの作品が英語、中国語などに翻訳されている。近著は『とわの庭』(新潮社)。
((スタッフクレジット))
文:小川糸
写真:清水奈緒
スタイリスト:野村奈央