東京吉兆の味 連載1
吉兆と東京吉兆

伊勢丹新宿店7階のイートパラダイス(レストラン街)で長く愛されている日本料理店<正月屋吉兆>は、<東京吉兆>支店として1989年に開業。日本庭園を臨む店内には、街の喧騒を離れた侘び寂びの時間が流れます。日本料理界の至宝と言われた創業者湯木貞一氏が東京の店にかけた想い、そして湯木家が継続してきた日本の家庭料理のレシピ伝授を連載でお届けします。

 

「世界之名物 日本料理」を掲げて

日本で料理人初の文化功労者となった<吉兆>創業者の湯木貞一氏は、神戸の料亭<中現長>の長男として生まれ、料理人としての英才教育を受けて育ちました。湯木氏の若かりし頃、正統な日本料理は宴席用本膳料理が主流でした。しかし、湯木氏はこれに疑問を持ち、自分の料理観と合うものを模索します。そんな時に出合ったのが松江藩(現島根県)の藩主で茶人として高名だった松平公の「茶会記」という茶会の献立、設えなどの記録本です。日本人の季節感を総合的に表現する茶の湯の考え方に感銘を受けた湯木氏は、料理技術と茶の湯の世界の融合に、己の進むべき料理道を見出します。25歳の時でした。

湯木貞一氏は、茶の湯の世界を知ることで自身の進む料理の方向性を得た。茶の湯に通じた、関西の政財界の顧客たちが、<吉兆>の東京進出を支えた。

1930年、30歳の時に大阪新町に<吉兆>を開業。開業当初の苦難や戦争などの非常時を乗り越え、関西で名声を博して盤石な基盤を築きあげます。京都、大阪のいわゆる上方料理の名店では、関東大震災(1923年)後、<出井><浜作>などの名店が既に東京進出を果たして成功を収めていました。1950年代になり、関西で抜群の名声を高めた<吉兆>に、東京出店を勧める話が上客を通じて持ち上がったのは極めて自然な流れでした。

「われおもふ人のありやなしやと隅田川の都鳥に思ひを託して、上方の吉兆が花の都の新橋のかたすみにささやかな店をかまへることになりました。正真正銘わかりにくいほど小さな家でございます」(「吉兆 湯木貞一 料理の道」 末廣幸代著 吉川弘文館)
※1961年、<東京吉兆>本店は銀座8丁目にて開業しています。

これは<東京吉兆>開業時に湯木貞一氏がしたためた挨拶状の言葉です。五人の子宝に恵まれた湯木氏は関西に4店舗、そして新たな礎として東京の一店舗をそれぞれ子供たちに暖簾分けします。東京店を担当することになったのが、長女の照子さんと長女婿の昭二郎さんでした。最初は、関西と異なる赤出汁や赤身中心の魚文化にも戸惑いましたが、徐々に吉兆らしい上方料理を提案していきます。しかし東京進出直後、湯木家は大きな不幸に見舞われました。貞一さんと二人三脚で<吉兆>を成長させてきた妻、きくさんの逝去でした。きくさんの死に大変なショックを受けた貞一さんは、あらためてこれからの進むべき道について熟慮します。そして、この時に思いついた言葉が「世界之名物 日本料理」でした。まさに東京という場所を得たからこそ、そして最愛の妻を亡くした苦悶があったからこそ得た天命、啓示だったのでしょう。この言葉は、<吉兆>の企業理念となりました。

創業者の湯木貞一氏(右)と<東京吉兆>前社長の湯木昭二郎氏。伊勢丹新宿店<正月屋吉兆>の“正月屋”は湯木家の出自に由来する。湯木家祖先は江戸時代、安芸国安芸郡矢野村(現広島市安芸郡矢野西)で“正月屋”の屋号で廻船問屋を営んでいた。明治時代に入り、国民が苗字を名乗るようになると、正月屋も苗字会議を開いた。正月に降った雪が縁起が良いことから“湯木”の字を当てた。

 

日本料理を家庭料理から消さないために

「世界之名物 日本料理」。この言葉に突き動かされるように、東京進出後の湯木貞一氏は日本料理の伝道活動に力を入れます。1950年代からは東京を訪れる外国人客が増え、<東京吉兆>は次第に海外の要人の間で知られる存在となります。そして、この言葉にふさわしい舞台が用意されました。日本初開催の1979年東京サミットの料理を任されたのです。東京サミットの大成功が評判となり、<東京吉兆>には外国から王室や貴賓を迎える機会が増えました。こうして第2回目の東京サミット(1993年開催)もまた、湯木氏が担当することとなりました。

海外での日本料理の認知が高まる一方、日本の家庭料理は西洋化が進んでいました。これに大きく危機感を抱いていた湯木氏は、思いを同じくしていた「暮しの手帖」の名編集長、花森安治氏と共に家庭でできる日本料理を伝える企画「吉兆つれづれ話」を「暮しの手帖」でスタートさせます。この企画は人気企画として長く続き、書籍化もされました。そして湯木貞一氏、花森安治氏が亡き後も、その思いは<東京吉兆>三代目、湯木俊治氏に引き継がれ、「吉兆の家庭ふう料理」(湯木俊治著 暮しの手帖社)がその後発行されました。晩年の湯木貞一氏は家庭料理への思いをこう語っています。

「同じ家に暮らしていく、というような出会いは、人間として生まれてこれほど大切なことはありません。その中でも、晩ごはんにみなが集まるということは、家族の大事な出会いです。お互いにその時間を大切にしなければと、この頃しきりに思うのです。ご家庭での夕げの重大さも知っていただきたいと願わずには入られません」(「吉兆 湯木貞一 料理の道」 末廣幸代著 吉川弘文館)

当連載の二回目以降はこの思いに共感し、ご家庭でも応用の効く、基本的でありながら<東京吉兆>の知恵を生かした家庭料理のレシピを伝えて参ります。

1997年に95歳で生涯を閉じるまで、湯木貞一氏は日本料理の伝道に人生をかけました。その思いは、暖簾分けをしたそれぞれの店舗に受け継がれます。現在<正月屋吉兆>で料理長を務める岡田康平さんは19歳で<東京吉兆>に入店し、以来、20余年に渡って<東京吉兆>の味を染み込ませてきた一人です。

1992年<東京吉兆>入社。吉兆一筋の料理人人生を歩み、2018年に<正月屋吉兆>の料理長に就任。入店以来心がけているのは「一つの皿の向こうに、一人のお客さまがいるということ」。一つ一つ、一皿一皿の仕事を丁寧に、吉兆の味を守り続けている。

岡田料理長は「先代の考え方は吉兆各店に共通する理念ですが、献立や料理はそれぞれの店で発展させてきたもので、別の店として切磋琢磨して今があります」と話す。次回からは、岡田料理長に<東京吉兆>の家庭料理のためのレシピをご紹介いただきます。

東京都新宿区新宿3-14-1 伊勢丹新宿店本館7階イートパラダイス
電話 03-3355-6644 (代)
営業時間 昼 平日 11:30〜14:00 L.O
     土・日・祝 11:30〜14:30 L.O
     夜 全日 17:00〜19:00 L.O
※営業時間は変更になる場合がございます。

 

Text:ISETAN FOOD INDEX編集部
Photo:Yu Nakaniwa (2枚目を除く)