2021.6.8 UP
突発的に、何かについて詳しくなりたい! と思うことが、ときどきある。一時期は赤ワインに詳しくなりたくて勉強した。あるときは、ブランド豚肉に詳しくなろうと決めて、さまざまな銘柄豚を食していた。
記憶をたどってみれば、最初の詳しくなりたい熱は紅茶だった。ひとり暮らしをはじめた二十代のはじめだ。そう思ったきっかけは、当時通っていた大学の裏手にあった喫茶店で飲んだ紅茶が、震えるくらいおいしかったことだった。
それまで当たり前に飲んできて、紅茶は紅茶でしかなかった。せいぜい、ティーバッグより茶葉で入れたもののほうがおいしいと思うくらい。それでもふだんはティーバッグを飲んで、まったく不満もなかった。その喫茶店で飲んだのはアールグレイのアイスティーだった。ゆたかではなやかな香り、まろやかさのなかのほのかな苦み、紅茶ってこんなにおいしいのかと感激した。
がぜん、紅茶に詳しくなりたくなり、住まいの近所に紅茶葉の専門店を見つけて通った。ダージリン、アッサム、ウバと毎回種類の違う葉を買っては、ていねいに淹れて味わった。……が、挫折した。種類の多さに加えて、収穫期による味の違いを味わい分けられる舌の繊細さを、私は持っていなかった。
それ以後は、気負わずに紅茶とつきあうようになった。気負わずとも、紅茶は日常のなかにいつもある。家には常備してあり、手みやげや気軽なプレゼントとしてもらう機会も多い。いただきものの紅茶は、自分で調べたり選んだりするのとはまったく異なる発見がある。葉の種類や収穫期の違いに加えて、各種ブランドの個性によっても味や香り、印象がまるで異なる。気負わずにつきあうようになって以後のほうが、紅茶との新鮮な出合いは多く、バラエティゆたかになった。手渡された包みを開けて、中身が紅茶だとわかるとわくわくする。たいていの紅茶は、缶にせよ箱にせよ、パッケージがうつくしい。紅茶を飲みきってしまっても、ずっととっておきたくなる。
「NAVARASA」という名の紅茶ははじめて手にした。だれもが持つ感情・感覚を、インドの芸術の世界で「ナヴァラサ」というらしい。ナヴァは九つ、ラサは感情をあらわす言葉で、芸術において表現される、人間の持つ基本的な「九つの感情」という意味になる。その名を冠した缶には、葉の種類、その年の初摘みを示すDJ1というロット番号、茶園名が刻印されている。中身を取り出し、葉の色にまず驚く。よく見る茶色の葉ではなく、深緑の茎葉のなかにまだ鮮やかな緑の葉も混じっている。みずみずしい香ばしさを放つ葉に、気持ちが引き締まる。
あたためたポットに湯を入れて葉を蒸らし、カップに注ぐ。濃い茶色ではなく、緑がかった淡い茶色の液体から、さわやかな香りが広がる。一口飲むと、紅茶独特の渋みよりも、はなやかな甘さをまず感じる。もしかしてファーストフラッシュの紅茶をきちんと味わうのは、はじめてのことかもしれない。今まで飲んできたどの紅茶とも、色も味わいも異なることに、また驚いてしまう。
このお茶を飲んで、だれもが私と同じように感じるかはわからない。もっとほかの感想を抱くかもしれない。紅茶をあまり飲まない人と、紅茶通の人とでは、感想もきっと違うだろう。でも何かしら、今まで紅茶に対して抱いていたイメージとは異なる印象を持つはずだ。人間の持つ、九つの感情の、どれをいちばん揺り動かされたか、贈ったあとに訊いてみたくなる。
〈ナヴァラサ〉ダージリン2021ファーストフラッシュマーガレッツホープ農園 ホワイトシャイニーディライト(大缶)茶葉原産国(インド/35g)4,860 円
伊勢丹新宿店本館地下1階 プラ ド エピスリー
インド・ダージリン地方にあるマーガレッツホープ農園の一角、標高約1200mの伊勢丹限定の区画で栽培された春摘み茶(ファーストフラッシュ)。甘くて優しい、若葉の凛々しさをしのばせた芳香が漂うフレッシュな果実のように瑞々しくグリニッシュな味わい。黄金色の美しい茶液も特徴。
角田光代
かくた・みつよ/作家。
2005年『対岸の彼女』で直木賞、2006年「ロック母」で川端康成文学賞、2007年『八日目の蟬』で中央公論文芸賞をはじめ、数多の文学賞を受賞。近著は5年にわたって現代語訳に取り組んだ『源氏物語 上・中・下』(河出書房新社)。
写真:福田喜一 和田裕也(大缶)
スタイリスト:chizu