美術
日本橋三越本店のアートギャラリーにおいて「写真」の展覧会の開催はとても珍しいことです。
今回は、三越コンテンポラリーギャラリーにて個展開催(2020年11月現在)の今注目の写真家 齋藤陽道氏に
「写真」について、また、先天性の感音性難聴という個性をもって生まれた氏の写真に出会うまでの経緯や想い、自身主演のドキュメンタリー映画についてなどあらゆる視点からインタビューしました。
齋藤 陽道(さいとう はるみち)
1983年9月3日 東京都生まれ。都立石神井ろう学校卒業。
ドキュメンタリー映画主演 「うたのはじまり」 河合宏樹監督
【受賞】
2009年 「タイヤ」 写真新世紀 佳作賞 飯沢耕太郎選
2010年 「同類」 写真新世紀 優秀賞・佐内正史選 東京写真美術館『写真新世紀』展示
2014年 日本写真協会 新人賞
――齋藤さんが写真を生業にしていくと決めたきっかけはありましたか?
写真をやっていけば、いろんなところに行けて、いろんな人と出会えて、いろんなごはんを食べられる。というのがぼくの写真のきっかけでした。それは「関わりの可能性を広げたい」という初志がもとになっています。
でも、まさか写真で生活できるようになるまでいくとはおもってもいませんでした。てんでいろいろカツカツですが・・・!
――初歩的な質問なのですが、そもそも齋藤さんがカメラをはじめたとき、写真の現像などはどのようにされていたのでしょうか?暗室で現像するイメージを抱きがちです。
写真の現像、めちゃくちゃ面倒くさくて嫌でしたねえ。いまも、フィルムもデジタルも完全に自己流です。写真が好きでたまらない!という気持ちは全然ないです。写真の技術の幅をひろげていけばおのずといろんな人と出会えるだろう、という思いで写真の勉強をしていました。写真がどうこうよりも、出会いたいだれかの存在が、常にありましたね。
――写真の初めての発表はいつでしたか?その時どんな気持ちでしたか?
いつだったかなあ。写真新世紀の佳作を受賞したとき、東京都写真美術館で展示した『タイヤ』が、印象に残っている最も昔の作品です。いろんな人にブックを読んでもらって、ぼろぼろになっていくブックがうれしかったのを覚えています。
※発表作品とは別の作品です。
――写真が上手く(思うように)撮れるようになったと思った瞬間はありましたか?
うーん、なんだろうなぁ。今も上手く撮れてるとは思えてないですけども、「いい」と思える写真が撮れるとき、シャッターを押す直前に「あっ、これから撮る写真、きっといいものになるな」という直感が働くようになってきたときです。実際、そう思った写真はたいていもう間違いなくいいです。
そうした瞬間的な直感を重ねることで、「これは時間をおくことでいいものになるだろうな」という長い目による視点があることを知ってから、写真がより楽しくなってきましたねえ。
――時間をおくとは?
時間をおく…つまりは写真をねかせるということでした。
「自分自身と、写真の距離をおく」ということができるようになったとき、写真がもっとおもしろくなりました。撮りたてのときは距離が近すぎて冷静な判断ができないコトも多いんですよねー。いやむしろその距離をつくることが写真のカナメですね!
直感…のくだりと矛盾するようですが。
――2020年11月三越コンテンポラリーギャラリーで展示する作品も時間をおいた作品があるということでしょうか?
個展では、2010年に1回展示をして、それからまたしばらくプリントやらについての試行錯誤が長かったです。今回で2回目です。プリントの用紙とかいろいろ試していました。余白を、白から黒にしたり。スキャンしてデジタルデータにしてからの色味やらにも長い時間をかけました。
――写真を撮る上でのこだわりを聞かせてください。
(撮り方のポイントとか構図のきりとり方とかあの空気感はどうやって生み出せるのですか?)
ぼくの撮り方は、「日の丸構図」なんですね。被写体がまんなかにいる。ほぼ100%、そうです。このクセのおかげで本とかにするときのデザイナーさん泣かせのようです。ここで謝っておこう・・・。すみません。アハハ。
「目の前のあなたたったひとりにそそがれたまなざし」を感じられる写真に、ぼくは感じ入るものがあります。なので、構図とか絞りとか、こちょこちょせせこましいことを考えるよりも、それまでのやりとりやことば、声ならぬ声、というものを積み重ねることを重視しています。
――他の写真家さんと違うところや齋藤さんの写真の特徴はなんだと思いますか?
(齋藤さんにしか撮れない写真ってどんな写真だと思いますか?)
でこぼこなフラットというものを追求しているところかなあ。
人間は、でこぼこしているでしょう。いろんな欲求や、知識、本能がごちゃまぜになっている。からだの肉のなかにも、バラバラに、でも、すべてつながってうごめく内臓がある。そういう凸凹なものを含んではらんで、ひとつのフラットな存在としてある。そういう、でこぼこなフラットさを、言葉ではなく、写真の言語で表したいとつねに思います。
――お気に入りのカメラはありますか?(相棒)
PENTAX67Ⅱです。大吾郎と名付けてます。
買ったとき「大吾郎」という焼酎をよく飲んでいたからです。笑
――良い写真とはどんな写真だと思いますか?
違う時間の次元にはいりこんだような、時間の迷子になったような、そういう思いにさせられる写真が「いい写真」かなと思います。
――すべての芸術(表現)について、根本は同じだと思いますか?
人間である以上、そこにまつわるいろんなことから逃れられないので、そういう意味では、根本は同じだと思います。
――「そこにまつわるいろんなこと」とはどういうことでしょうか?
生老病死…ですね。生きるとか老いるとか、孤独とか病死に対する恐れへの答えとして芸術はあると考えています。
――齋藤さんにとってのこころの拠り所はありますか?
こころの拠り所かぁ。考えたこともなかったです。質問をうけて、初めて、考えます。心のよりどころ・・・・・・。うーん。本でも、芸術でも写真でも、人でも自然でも、どこかの光景でもなんでもいいけれど、沈黙、の、質を、深める、あるいは、拡げるような、ものを、ぼくは必要としています。
写真を見てもらうときに影響されるのがいやなので、あまり自分の障害のこととか、体のこととか言いたくはないのだけれど、やはりどうしても切り離せないものなので、言いますが、聞こえない身体を生きるということは、音声社会のなかでどうしてもコミュニケーションの機会が少なくなります。長年、そうした、自分の言葉を封じられた状況を「沈黙」だと思っていました。さみしくて、孤独なもの。まさに死に至る病として「沈黙」をとらえていました。だからぼくにとって沈黙は避けたいものでした。けれども写真をやってみて、沈黙のうちにふくまれる豊穣なるものがあることを知りました。この豊かな沈黙をもっと知りたい、深めていきたい、という衝動が、写真活動につながっているし、ぼくの表現するものすべての源泉がここにあります。
――「豊かな沈黙」とは?
沈黙かどうかはわからないですが、ぼくは「存在と今、向き合っている!」という素朴な事実にいつもいつも心揺さぶられます。そうした瞬間が残ってしまった写真を見るたび、心の中が激しくうねりつつも、静かな、すん、とした心境にもなります。この矛盾を含んだ気持ちが沈黙というものの形に似ているなと思います。
ぼくは沈黙を言葉の絶えた気まずい状況のものだと思っていました。ぼくの聞こえのこととも関わってくるのですが補聴器を使っていると、相手の話すことがわからないという状況によく陥って・・・シーン・・・・・・という気まずい状況になることがよくありました。なので、沈黙は避けるものと思っていましたが写真をやっていくうちに、「いや沈黙って、ただ静かなさみしいところのことじゃなくて、もっとにぎやかで動的なものなんじゃないか」と思うようになり…ました。自らの裡にもどるきっかけにさせてくれる沈黙を、「豊かな沈黙」と思っています。
――世の中でデジタルのつながりが増えてきています。ネットで注文、Twitterのフォロワーをはずしたり、増やしたり。すべてがボタンひとつで解決する。自分の世界を広げたり閉じたりできるようになりました。便利な分、例えば手紙で想いを伝えるために辞書をめくったりするような時間、そういった人のこころの成長や、つながりが希薄に感じられる場面が目につくように感じます。
齋藤さんはデジタル化がすすむ世の中についてどう感じられてますか?
ぼくはiPhoneの登場によって、心底、救われました。iPhoneによって、スマホというみんなが同じ伝達手段を共有したことにより、スマホを使ってのやりとりに違和感を抱かれることがなくなり、そこから拓かれた関わりがいくつもあります。音声の会話をベースとする盲者とも、言語の違う海外の人とも、スマホを通してやりとりができる。ほんとうに気が楽になりました。そうしたことからコミュニケーションの可能性を大きく広げてくれたものとして、デジタルの恩恵をめちゃくちゃにあずかっています。
けれども、一方で、とりかえしのつかない悲しみや、どうにもことばにできない心底からの歓喜といった極個人の感情がいともたやすく共有できることによって、おのれの感情やことばを熟成させる機会の欠落の深刻さも感じています。
沈黙して、おのれのうちにとどめて、熟成すること。それはとても大切なことなんですけどね。ぼくもスマホやデジタルとの付き合いに悩んでます。土や自然の感触につねに触れていないと、という危機感があります。
――齋藤さん主演のドキュメンタリー映画「うたのはじまり」が上映されましたが、映像と写真の表現の違いについてどう思いますか?(動きや音があるないが大きな違いですが)
あまり考えたことないです。
――映画に出演されている七尾旅人さんや飴屋法水さんとどういうきっかけで知り合いましたか?
まずワタリウム美術館のうらにあった、坂口恭平さんが起ち上げたゼロセンターで展示をしたときに、和多利浩一さんが飴屋さんを紹介してくれました。それが縁になって、飴屋さん演出の「ひかりのからだ」という公演の出演に指名をうけました。そこに七尾旅人さん、『うたのはじまり』の監督、河合宏樹さんもいた・・・・・・というてんまつです。
――どんな方々ですか?
すてきな方々です。人間の下劣さも含めて、いのちを真剣にまなざす人たち。
ぼくには、飴屋さん、七尾さんも、河合さんも、みんな上品な人!上品?上品っていうのかな?・・・・・・うん。
――齋藤さんはいろんなコミュニケーションをされていますね?
ぼくの場合、「音声ができることが、この社会で生きていく上でのすべて」だとしてしまうと、あまりにもさみしいので、いろんな関わりの形を模索しようという行動に繋がって、それが写真でより活きたのだと思っています。
――最も尊敬してる人は誰ですか?
バスター・キートンです。
彼のことば、「ゆっくり考え、すばやく行え」はぼくの座右の銘です。
――バスター・キートンのことをなぜ尊敬しているのですか?
※バスター・キートン…チャールズ・チャップリン、ハロルド・ロイドと並ぶ「世界三大喜劇王」
何度も言ってますが、沈黙って、怖いものだと思っていたんです。でもキートンは体だけを使って、(表情もないから、より静かなはずなのに)いろんな思いを感じさせてくれて…言葉がなくても、こうして伝えられるんだなと初めて教わった人だからです。
チャップリンは表情がしゃべりすぎるし、ストーリーもヒューマニズムすぎるからそんなでもなかったです。
――座右の銘「ゆっくり考え、すばやく行え」はどんなことに活かしていますか?
生活も、写真においても、全てそんなかんじでやってます!
すぐに言葉ですませないで、生身の身体をうごかして、考えろ!っていうことかなー。
――音を撮る、音も見ようとしながら撮るとの事でしたが、どういう心がけが目に見えるもの以外を写すことになるのだと思いますか?
齋藤さんの作品を見た時、逆光に照らされてぽわっと温かさを感じます。暖かいが印象でした。温度を感じることも齋藤さんの特徴だと思います。
音や、温度、目に見えないものは、写真には写らないですねえ。あはは。
――その一瞬をつかめる鋭い感覚の根本にある、齋藤さんに影響を与えたものはありますか?
手話かなあ。小学中学は普通学校に通っていて、16歳にろう学校に入ることになって、そこで初めて手話と出会いました。表情や目線、からだの向きといったものも意味として含めて聴く言語であると知り、数年かけて手話を身に着けていく過程で感じた、なんだろう、「目の喜び」というような感動が、ずっと残っています。
見れば見るほどに、どこかしこにも意味が含まれているという驚き。それは世界を見つめるまなざしも大きく変えてくれました。音声言語で話していたときだったら、たとえば木が揺れているとして、「風が吹いているな」と言葉で思って終わってたのが、手話を身に着けようとする過程で、葉の一枚一枚がざわざわり、それぞれ異なる揺れをしている、あまたの揺れがひとつとなっている…、見れば見るほどに、見る喜びが深まっていって。
逆に、そうしたたくさんの動的な動きをいっぺんに見て処理する手話言語からすると、写真は、動かなくて、つまらないんですよね。ただの一枚の紙。少なくとも、20歳のときに見た写真はそういうものにしか思えなかった。もっとこう、なにか、ぼくのこの感じている「目の喜び」を写真に活かしたい、と思ったのが、写真をやってみようというきっかけになっています。
――手話、声、文字3つともしっくり来ないから写真を撮ってるとのことでしたが、写真家を目指したきっかけは?
表現として写真をとらえるようになったきっかけはなんですか?
例えば、いくつのとき、だれの写真をみて、どうかんじたのか、知りたいです。
だれかの写真を見て、ぼくも写真をやってみたい、というのはないですね。うえに書いたことのように、あくまでもぼくが手話を通して世界を見つめたときに感じた「目の喜び」を、ぼくなりに写真に表したい、というのがきっかけでした。
――写真は昔から好きでしたか?
大嫌いでした。写真ってつまりはコミュニケーションの結晶ですから、音声でのやりとりがうまくできなかったぼくからすると、コミュニケーションの不完全さを見せつけられるものが写真で。だから本当にだいっきらいでした。
――齋藤さんが逆光ポートレートシリーズを、『絶対』と名付けた意味は?
「今生きていて、やがて死んでいく私たちが今こうして出会っている」という事実を絶対的なものとして強く有らしめたいという思いをずっと抱えています。「絶対」は、ぼくの願いです。
よくニヒリストに「絶対なんかないよ」なんて言われるんですけども、それでもあえて言い切ってしまわないといけないことってやっぱりあると思うんですよねぇ。写真集「感動」も、「感動、」もそうした思いでタイトルを決めました。あんまり、ヒューマニズムに寄りかかると、写真ってつまらなくなるので、危ういところなんですけども、ギリギリのところで強度をたかめていって、うちたてておかないとな、と思います。ダサさを貫いた先には、きっと百年前も百年後もそれこそ1000年後の人も、「あー」とうなづけるものがあると思うので。
「人間としての大切な、素朴な何かを浮き上がらせたい、というのがぼくのテーマです」
『感動』と『感動、』の写真の並び・ページは一緒。10年の時間をリンクさせています。「深化」としての「、」を示す作りです。
――かつて撮影してもっとも印象にのこってる作品はありますか?
タイの僧侶かな…。静かに、静かに、アイコンタクトして、静かに、撮影したんですが、あんなにも静かな撮影は初めてでした。あとは、猿。長野県の地獄谷の、温泉に入る猿がいるんですが。温泉から出て、ぼうっとしている猿でした。ぼうっとしながら、ちらり、ぼくを見つめて。そのまなざしに射抜かれました。美しかったな。
――作品を観る方にどう思ってほしいと思ってますか?どう思われたいですか?
太陽が地平線すれすれになるのは、一日のうちのわずかな時間です。日本は建物や山があるので地平線に落ちるよりももっと早く暗くなりますね。夕暮れの太陽はあっというまに沈んでしまいます。そのわずかな時間のあいだに、たまたま、時間を共にしていた存在たちです。
使っているカメラはフィルムの中判カメラ(PENTAX67、105mm)です。太陽とぼくのあいだに立っている存在に目を向けながら、目を凝らしつつ、手でピントをあわせてゆきます。そうしているうちに、なんでしょうね、光に頭が、目がやられちゃうんですかね、目の前にいる存在を表す名前が消えていくんですほんとうに。ただただ、存在、として、そこにいる。その素朴な劇的さ。そうしたものを想って写真と向き合ってもらえると、ありがたいです。
――齋藤さんにとって「太陽」はどういう存在ですか?
野蛮なものですねぇ。こわい。優しいときもあるけど、それはやっぱり距離をおいてこそだから。太陽が近くても焼け死ぬし、遠くても寒すぎるし。太陽にカメラ向けるのってほんとダメ!まじで目、焼ける!でもそうして、『絶対』は撮影しています。いつもこわいなーと思いつつ、やっぱり惹かれてしまう。そんな存在です。
――ソラポなどかわいいタイトルやすてきなタイトルが多いですね。どういう風につけてるんですか?
ソラポは、写真家の佐内正史さんがぼくの写真を見たときに思いついたことばです。それをいただきました。最高にかわいいですよね。
タイトルのつけかたのルールは、とくに決めていないですが、んー、人間として欠かせないはずのもの、や、いのちのありようの拡張につながるようなもの、に、印をつけて残しておかなきゃ、という思いはずっとあります。パッと見てかっこいいタイトルとかはいくらでも浮かびますが、そういうかっこいいタイトルを写真にあてはめるのは、「この期に及んでそんな小賢しいことをしている場合か?」と自問が始まるので、ぼくにはちょっとしんどいです。そうした方が売りやすいんだろうなーと思いつつ・・・・・・。
――三越の初個展でおすすめの作品を教えてください。
大きい写真たちです。B0サイズで、ぼくがどうしても見たかったので、金欠に涙と鼻血を流し、数十本のかみのけを失いつつやってみました。
――今後撮りたいテーマや、被写体はありますか?
もっといろんないろんな存在に出会いたいですねえ。
太陽は、どの国にもあるから、太陽さえあれば世界中のどこだって、『絶対』によるぼくだけのスタジオになります。コロナさえなければ世界中のいろんなところにいって撮りたかったのに、とも思いますが、まあ、身近な深淵を見出す機会と思って、身近のいろんな人の逆光ポートレートを、改めて撮ってみたいです。
――写真を初めて観る人にアドバイス。どうやってみればいいですか?観る側の心がけは?
心を燃やす!
――お子さんがカメラマンになりたいっといってきたらどんなアドバイスをされますか?
(ふたりの子どもに答えるとして)
うーん、もっとむだなことをして、いろんなところにいって、写真じゃないたくさんの勉強をして、それから写真にいけばいいよ。もっと人間のこころの機微を知る経験をしよう。写真って、写真一枚だけで終わるものじゃなくて、むだのようなあれやこれやが静かにつみかさなって、撮れるものだからね。それからでも全然おそくないから大丈夫。楽しくうれしい思い出になることに、今は、ただただ挑んで。
――ありがとうございました!
ぜひ皆さんも齋藤氏の「写真」の世界を楽しんで観てみてください!
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