日本文化発祥の地から。奈良一刀彫の「五月人形」

奈良一刀彫はもともと、平安時代の終わり頃に春日大社の祭礼で飾られたもの。それが江戸時代に節句人形として一般の人にも広まったと伝えられています。
中でも一刀彫の五月人形は、男子の健やかな成長を願う力強いフォルムと美しい彩色の調和が、近年注目を集めています。
今回は奈良市西ノ京で奈良一刀彫を制作している<誠美堂(せいびどう)>を訪ね、ご主人の水川 丈彦(みずかわ たけひこ)さんにお話を伺いました。
大和の風土の中で育まれた、奈良一刀彫のお人形
唐招提寺や薬師寺などの名刹が飛鳥~白鳳~天平時代の華麗な歴史を伝える奈良県奈良市、西ノ京駅からほど近くに、奈良一刀彫人形の店舗と工房を構える<誠美堂>。ここを訪れた私たちを出迎えてくれたのは、ずらりと並んだ色とりどりの五月人形でした。

水川さん、はじめまして。初めに、奈良一刀彫について教えてください。
水川さん:奈良一刀彫の起源は諸説あるのですが、平安時代の終わり、十二世紀の半ばに「春日若宮おん祭」で芸能を奉納した田楽座の花笠に木彫の人形が飾られたのが始まりだという説が有力です。
その当時の奈良一刀彫は、神に捧げる人形として作られた荒々しいものだったでしょう。しかし、奈良は以前、都があり、神社仏閣の非常に多い街です。そこに飾られている神具・仏像、それらを制作する職人さん、模写する職人さん達が、たくさん住んでいました。
そのため、荒々しかった人形が、長い時間を掛けて絵師の筆で極彩色に彩色されるようになった。そうして段々と美しい姿を持つようになったのではないかと、私は想像しています。
奈良一刀彫は、この地で長い年月を掛けて育まれたのですね。
水川さん:その後、江戸時代の後期から明治時代にかけて、奈良一刀彫の歴史上で最も有名な作家「森川 杜園(もりかわ とえん)」が誕生して、その名は全国に知れ渡りました。杜園さんは鹿の人形を見事に彫り、絵筆も鮮やかに操られたと言います。現在、残っている鹿以外の作品をみても、すばらしい才能のある彫刻家だったようです。
毎年12月の半ばに行われる春日大社のお祭り「春日若宮おん祭」では、奈良一刀彫の人形が今でも奉納され続けています。
“大和は、国のまほろば”といわれます。まほろばとは、すばらしい土地という意味ですが、奈良は何かにつけてものの始まりに関わりのある土地です。お酒も漆器も、そもそもの始まりは奈良だといわれます。この土地には、今でも伝統に育まれた多彩な工芸技術が生き続けています。

奈良一刀彫はどうして「一刀彫」と呼ばれているのですか。
水川さん:どうして「一刀彫」というのか。これにも諸説あって、“一本の小刀で彫るから”という説もありますが、私は“一気に彫り突き上げるから”「一刀彫」というのだろうと思っています。
実際、作業中の職人さんは、本当にひと息で彫刻刀を突くのです。躊躇することなく、ひと突きで形を整える。面としてスパッと切る。奈良一刀彫のお人形は、そのような一突きひと突きを重ねることによって生まれた面の集合体です。
立体ができあがったら今度は、極彩色で絵付けをしていきます。まるで能の衣装のような金箔や岩絵具による華やかな色彩は、おそらく薪能の装束から影響を受けたものでしょう。奈良は昔から、能舞台なども非常に盛んな土地柄でしたから。
その結果、奈良一刀彫のお人形は、彫りの力強さと彩色の華やかさの両方を揃えたものになりました。

<誠美堂>さんが、こちらにお店と工房を構えたのはいつですか。
水川さん:私の父が西ノ京にこのような店舗と工房を開いたのは、昭和35年(1960年)のことです。歩いて数分の距離にある薬師寺は、ほとんどお隣さんの感覚。私は小さい時から薬師寺の境内を走り回って育ちました。
毎年夏になると薬師寺の駐車場で盆踊りがあって、有名な管主だった高田 好胤(たかだ こういん)さんがマイクを持って仏教講話をされました。子供でさえぐいぐい惹き付けられてしまうような、とても面白いお話だったことを覚えています。
考えてみると、ここ西ノ京で奈良一刀彫の仕事を60年以上していることになります。
若手作家が腕を振るう、<誠美堂>の一刀彫工房

こちらが<誠美堂>さんの工房ですね。彫る職人さんも、彩色をする職人さんも、皆さんお若いですね。
水川さん:30年ほど前に、私が父の跡を継いでこの世界に入った時には、私ども誠美堂でも80歳くらいの有名な職人さんが4~5人、腕を振るっていました。しかし、この15~20年くらいで、バタバタと代替わりをしてしまいました。
今はほかの職人さんたちもふまえて、ちょうど移り変わりといいますか、世代交替をして若い世代に繋いでいく時期に当たっているということもあって、若い職人の数が増えています。こちらでも若い感覚を積極的に取り入れるようにしています。
<誠美堂>さんに所属している作家の方は、皆さんこちらで作業をされているのですか?
水川さん:皆それぞれです。欄間(らんま)師から転向して奈良一刀彫の職人になった個性的な経歴を持つ「義山(ぎざん)」は、自然豊かな曽爾村(そにむら)というところに工房を開き、そちらで作品を作っています。曽爾村は「日本で最も美しい村」連合にも加盟している、ヤマザクラの咲き誇る本当に素晴らしい村です。
「鐵山(てつざん)」は、父親も奈良一刀彫の職人だった二代目です。彼も桜で有名な吉野の山奥の奥吉野に工房を持って、そちらで作品を作っています。
一刀彫の仕事は、最初に木を成型する時に、ゴーッという、かなり大きな機械音を立ててしまいます。人里離れている方が気兼ねなく集中して仕事ができるのかもしれません。
現在、こちらの工房で作業をしているのは、「神泉(しんせん)」や「祐誠(ゆうせい)」を始めとする、20代~30代の若い作家や職人さんたちです。

奈良一刀彫の職人の方には、何か共通する特徴がありますか?
水川さん:そうですね。職人さんはやはり、無口な方が多いです。皆さん、真面目な方ばかりです。個人で仕事をされている方は、お節句の前になると、毎晩徹夜で仕事をしているとよく聞きます。集中力が大切な仕事なので、疲れると怪我をする危険があります。怪我をしないためにも、休みをしっかりとるようにあえて言わなければならないほどです。
<誠美堂>から全国に送り出される、勇壮で優雅な「五月人形」

それでは、五月人形について教えてください。そもそも五月人形は、どのような願いを込めて飾られるのですか。
水川さん:端午の節句は、もともと三世紀に中国で始まったとされる行事です。日本では鎌倉時代に男の子の成長を祝って、鎧(よろい)・兜(かぶと)・刀・武者人形や金太郎を模した五月人形などを室内の飾り段に飾るようになりました。鎧兜には男子の身体を守るという意味合いが込められています。
その後、お人形を飾ること以外にも、菖蒲湯に浸かったり、鯉のぼりを飾ったり、ちまきや柏餅を食べる風習が広まりました。五月人形はそのようなお祭りの日に、家族が子どもの無病息災の願いを込めて飾るようなものになりました。
勇壮で美しい奈良一刀彫の五月人形は、子を思う親の気持ちをどっしりと受け止め、次の世代へと受け継いでくれるものだと思います。
奈良一刀彫の五月人形は、近年、とりわけ注目されているようです
水川さん:奈良一刀彫の五月人形は、昔から作られてきました。でも今のようによく知られるようになったのは、この数十年のことではないかと思います。
最近では、まず奈良一刀彫の雛人形をお求めになられてから、一刀彫を知り、次に五月人形をお求めになるという方がよくいらっしゃいます。雛人形は、雛祭りが終わったらすぐ片付ける方が多いようですが、五月人形は、インテリアとして甲冑(かっちゅう)を飾っているのとちょうど同じような感覚で、調度品として一年中飾る方もいらっしゃいます。

こちらが、五月人形の中でも「具足(ぐそく)」と呼ばれるお人形ですね。
水川さん:「具足」は、勇壮な甲冑を全身に纏ったお人形です。鎧兜だけでなく、手足を防護する籠手(こて)や脛当(すねあて)もしっかり身に付けています。一刀彫の力強い刀痕が、遠い戦国武将の息吹を現代に伝えています。
作者である「義山」・「鐵山」・「神泉」それぞれの特徴がよく現れています。戦国武将の甲冑をモチーフにしながら、彼らの感性でいきいきとアレンジしているからです。
「義山」の作品は欄間師出身ということもあって、彫りが細かいことが特徴です。「鐵山」のお人形は、大胆にして華麗。パッと目を惹きます。「神泉」のお人形には、オーソドックスで飽きのこない味わいがあります。それぞれの作品ごとに、作家の個性が際立っています。

こちらが「兜」ですね。
水川さん:奈良一刀彫の兜は、凛々しい鍬形(くわがた)がお家芸です。ぐいっと彫りこまれて金箔で彩られた鍬形は、圧倒的な存在感を放っています。形状は作家ごとに個性がありますので、お好みの形を選んでいただけたらと思います。
「鐵山」の兜の鍬形は、金箔を全面に使っていて、人の目を惹き付けます。このような金箔は、貼るのがとても難しい。薄い金箔をあまり押さえ付けないようにしながら貼る力加減が肝心なのですが、「鐵山」の作品はその力加減が絶妙です。
「義山」は先程お話しましたように、最初は欄間師をしていました。欄間師から一刀彫に転向したので、彫りが本当に細かいのです。また、このような繊細さと相反する、ダイナミックな彫りができるのもこの作家の特徴です。
「神泉」は奈良一刀彫の世界でも珍しい女性の作家です。三代目神泉を襲名しているということもあり、先々代、先代から引き継いだ神泉流のオーソドックスで飽きのこない造形が、ファンの支持を集めています。
真髄を極めた上で、今まで誰もしたことのないチャレンジを

奈良という土地は水川さんから見て、モノ作りのしやすい場所ですか。
水川さん:奈良は、日本でも一番古い都があった土地です。応仁の乱のような大きな災害がなかったので、今でも神社仏閣がたくさん残っています。(大仏殿が二度ほど焼失してしまったことだけは、返すがえすも残念ですが・・・)そう考えると、奈良はモノ作りのしやすい場所だったのではないかと思います。
しかしその一方で、自分たちには何もかもが当たり前すぎるのかもしれません。毎秋恒例の正倉院展でさえ、年中行事の一つというような感覚ではないでしょうか。生活の中に文化が存在するのがあまりにも自然になっているので、この環境をもう少しありがたく感じることも大切ですね。
これからの奈良一刀彫について、ビジョンや夢を教えてください。
水川さん:当社には、京都の伝統工芸の大学校の卒業生がこの世界に入ることが多いのですが、若い職人を育成して、しっかり後世に繋いでいきたいと思っています。そのためには、伝統を引き継ぐだけでなく、新しい発想を入れていくことが大切です。
昔からあるものをそのまま継承するだけでは、伝統はいつかつぶれてしまいます。鍬型を変えるなど小手先のことだけではなく、修行を通して奈良一刀彫の真髄を極めた上で、今まで誰もしたことのないようなチャレンジをしてほしいと願っています。
私はお客さまの声を聞いて作家に伝えることはしますが、作るものに対して口を出すことは一切しません。作家は、自分の個性に関してもっともっとわがままでも良いと思っているからです。

最後に、読者の皆さまにメッセージをお願いします。
水川さん:<誠美堂>の五月人形は、皆さまの願いが叶いますようにという想いを込めて、職人が一彫りひと彫り、一筆ひと筆に心を込めてお作りしたお人形ばかりです。末永く飾っていただけましたら、それにまさる喜びはありません。
<誠美堂>のある奈良市西ノ京地区は、薬師寺や唐招提寺などの土塀や、古刹を巡る散歩道のそこかしこに古の息吹の感じられる、心ゆかしい土地でした。このような国のまほろばで作り続けられている奈良一刀彫の五月人形からは、“本物は長く残る”という静かなメッセージが伝わってきました。水川さん、<誠美堂>の皆さん、本当にありがとうございました!