
顔のない人物の絵で知られるオートモアイ。描かれる人物は皆、まるで日常を切り取ったかのようにリアルであり、作者とは信頼のある関係性が伺える。カメラで簡単に写真を残せる今の時代に、身近な人物をあえて特定できないように表現するオートモアイの思惑とは。作品の隅々から感得できることを、編集者で日本翻訳大賞実行委員も務める平岩壮悟さんに寄稿していただいた。
AUTO MOAI個展「あやまった世界で愛を語るには」
□開催期間:3月29日(月)〜4月13日(火)
□開催場所:伊勢丹新宿店本館2階 イセタン ザ・スペース
公式インスタグラム:@isetan_the_space

カメラを見ない日はない。スマホが普及し、写真を撮ることは日常生活の一部になった。「写真に撮られると魂が抜かれる(から写りたくない)」と主張する人も、今では絶滅危惧種である。YouTubeやInstagram、TikTokは人気で、カメラを使ったコミュニケーションはすっかり定着しつつある。
個人が自分だけのメディアを持って発信できることはすばらしいし、使えば楽しさもある。けれど同時に、怖さもある。カメラは暴力的な装置にもなるのだ。たとえば芸能人。プロフェッショナルであるところのテレビや映画、広告への出演はいわずもがな、時には週刊誌のパパラッチによって私生活ですら、まなざしの対象となる。
プライベートは商品になる。なぜ商品になるのかといえば、プライベートこそ「リアル」で「生々しい」からだ。世界中で高い視聴率を誇るリアリティ番組もその一例と言えるかもしれない。人はそういうものを見たがっているのだ。
目にうつる全てのことはメッセージ

AUTOMOAIが描く絵には顔がない。というより、目と鼻のパーツがない。輪郭から察するに、人間のポートレイトであることは間違いなさそうだ。けれども、それが誰なのかはまったくわからない。手がかりとなるタイトルもない。「モナ・リザ」という人名もなければ、「微笑み」という表情もないのである。
とはいえ描かれている人物を知る情報がゼロというわけではない。柄物のシャツ、パーティドレス、厚手のダウンジャケットといった衣服は、持ち主の年齢やジェンダー、趣味やライフスタイルを知るうえでのヒントになる。現代の消費社会の特徴を「消費はコミュニケーションと交換のシステムとして、絶えず発せられ受け取られ再生される記号のコードとして、つまり言語活動として定義される」と謳ったのは、フランスの社会学者ジャン・ボードリヤールだった。背景に描かれている部屋や街並みも、前景にいる人物の正体に迫るための糸口となるはずだ。「目にうつる全てのことはメッセージ」と前に誰かも歌っていた。

とこのように、記号を頼りに描かれた人物が誰であるかを探っていくのはおもしろいが、はたしてその記号は今でも有効だろうか。ドレスを着ているからといってその人が女性であるとはかぎらないし、髪が長い男性だっている。記号が記号として機能するのは、同じ認識・前提が共有されている集団や場合においてのみである。価値観やライフスタイルが多様化すればするほど、共有された前提はなくなっていく。記号的な見方は、ステレオタイプに基づいた認識に直結し得るものでもある。顔のパーツが欠如した人物たちは、それを見ている側の認識や規範を否応なく炙りだすのだ。
顔のパーツはなぜ描かれていないのか?

ここで一旦立ち止まって、考え直してみる。AUTOMOAIの絵にとって、そこに描かれている人物が誰であるのか(を詮索すること)はそれほど重要ではないのかもしれない。むしろ主眼は、その人物との関係性──描かれている人物と作者や鑑賞者との関係性──にあるのではないだろうか。そんな気がしてきた。
画中の人物たちは、いずれもポーズらしいポーズはとっておらず、リラックスした様子だ。猫を抱き抱えてこちらに見せてよこす人、腕枕をしてベッドに寝転がる人。長い髪を持ち上げる人もいる。そこにあるのは、画家とモデルとのあいだの緊張関係というより、気のおけない間柄ならではの脱力しきった親密さだ。彼ら/彼女らは、一緒に街歩きをしているパートナーや自室でくつろぐ友人なのかもしれない。

ではAUTOMOAIはなぜ、そうした身近な人を描くのだろう。スマホのカメラでいくらでも高画質の写真を撮って残せる今、どうしてわざわざ絵に描かなければならないのだろうか。
現代の暮らしはデジタル化し、かつてなく便利になった。その反面、人と人とのつながりやコミュニティの感覚は失われつつある。都市部においてその状況はより深刻で、同じ町内に住んでいる人の顔も知らないままに、インターネット上での社交に勤しむことは当たり前の風景となった。そしてコロナの感染拡大以降、フィジカルな関わりあいは一層希薄になった。パンデミックは同時に、コミュナルなつながりや交流が人の生活にとっていかに必要不可欠であるかを明らかにもした。
親指ひとつでデジタル記録できるようになった人びとの関係性を、AUTOMOAIは絵を描くという行為で反復することによって、温度を感じるほどの距離にまでたぐり寄せ、より身体的なものとしてもう一度関係を切り結びなおそうとしているのだ。

顔のパーツがないのも、描かれている人物との距離感が関係しているのかもしれない。現代は誰もが視線の対象になり得る時代であった。まなざしは芸能人だけでなく、「一般人」にも向けられる。視線の暴力とは、そのまなざしが向けられる人物を消費の対象に変えることの蛮行にほかならない。
AUTOMOAIは描く対象を暴力的な視線の下に晒しはしない。いち個人をミューズやアイコンとして祭り上げたり、人が求める「リアル」や「生々しさ」を演出するために個人が特定され得る細部を描いたりはしない。
白日の下にさらすことなく、木陰の奥にとどめておくこと。プライベートをプライベートのままに遊ばせておくこと。それこそがAUTOMOAIの、そして匿することの優しさなのである。


匿名をテーマに日本で活躍するアーティスト。可視化されにくくあるストリートで暗黙に繋がる人と人との関係性を顔のないヒトによって描き出している。主な活動は個展‘Bouy’ (CALM AND PUNK GALLERY,東京,2020) など、‘Tacking City Nihonbashi’ (東京,2019) では8mの立体作品を展示、ほか300ページに及ぶドローイング集“Endless Beginning” (焚書舎,2018) 、渋谷PARCOリニューアルオープンを記念した描き下ろし作品集“ANGEL” (PARCO出版,2019) を出版。(auto-moai.tumblr.com / Instagram:@auto_moai / Twitter:@auto_moai)
AUTO MOAI個展「あやまった世界で愛を語るには」
□開催期間:3月29日(月)〜4月13日(火)
□開催場所:伊勢丹新宿店本館2階 イセタン ザ・スペース
公式インスタグラム:@isetan_the_space
Text:Sogo Hiraiwa
Edit:Rio Hirai
Photograph:Yutaro Tagawa(CEKAI)
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