人間国宝を訪ねて①
鈴木 藏 陶芸/志野

人間国宝を訪ねて1 鈴木 藏 陶芸/志野のメインビジュアル

人間国宝とは、重要無形文化財保持者のこと

「ものをつくるということは、創作でなくてはならない。創作というものは時代のイノベーションなのだから」

それは、作品をつくり始めた昭和30年代から、鈴木藏(おさむ)が自らに課してきたことでもある。「どうせやるなら前衛で。人のやらないことをやる。心に訴えるような、力強いものができたらと思っていたんです」。折しも、岡本太郎が著書『日本の伝統』の中で、縄文土器を盛んに称賛していた時代だった。「プリミティブで、命がほとばしるような力強いものをつくりたい」。そう思っていたから、茶碗づくりにはあまり興味がなかった。焼き物好きなら、鈴木 藏といえば、茶碗を思い浮かべる人も多いかもしれないが、茶碗への目覚めはまだ先のことになる。

志野茶碗の画像
志野茶碗 幅13×奥行11.5×高さ12cm

藏の父・通雄(みちお)は若い頃、焼き物を志して京都を目指す。当時は、焼き物といえば京都だったのだ。美濃出身の知人の紹介で、宮永東山の窯へ。ここで、工場長だった荒川豊蔵にかわいがられ、魯山人とも出会うことに。その後、妻木(つまぎ)を経て、多治見の<丸幸陶苑>の窯業技師となる。当時は、窯元に勤めたのち独立するというパターンが多かったのだが、通雄は戦争のため、その機を逸していた。息子である藏にも同じような仕事をと思った父は、新制工業高校へ進学させる。藏は抵抗するも父に説教をくらって渋々工業高校に進み、卒業後は、試験室で父の仕事を手伝うこととなる。ここで、みっちりと陶芸や釉薬など全般の基礎を教わる。

会社にはしじゅう国内外から来客があり、ろくろを回していた。勤め始めて5〜6年経ったころ、来客が使わなかったろくろを回してみたら、「案外、土がのびたんです」。おもしろくなって作品をつくり始める。そして、ここからが凄いのだが、1959年春、朝日新聞主催の現代日本陶芸展に初出品すると、自由作品は入選、課題作品が佳作に入賞する。秋には日本伝統工芸展にも初出品し、入選を果たす。それからの快進撃が目覚ましい。3回目の出品で春には一席、秋にはNHK会長賞を受賞する。こんなことが9年も続いた。「作品が売れたんですね。そして、賞金もいただけた。案外おもしろいなと思って(笑)」。作家として立つこともできるようになった。

藏さんの画像

さて、茶碗との「深い」出会いは、名古屋駅ビルの画廊での個展からだった。茶碗を15点ほど出品したのだが、京都の帰りにそれを見てくれた林屋晴三に、「古い茶碗を見たことがあるか」と尋ねられる。鼠志野茶碗の「峰紅葉(みねのもみじ)」(五島美術館)や「山の端(やまのは)」(根津美術館)は見たり触ったりしたことがあると答えると、「卯花墻(うのはながき)」はどうだ、と。展覧会ではもちろん何度も見たが、触れたことはなかった。すると、三井姿子(しなこ)さんに頼んであるから、と銀行の地下の大金庫の中に連れて行かれる。そこで触れた国宝の茶碗の迫力に圧倒された。もっと勉強しないと、と思ったのはこのときだった。「それから、茶碗が増えました」。

志野茶碗の画像その2
志野茶碗 幅12.5×奥行12×高さ9cm

鈴木の創作を語る上で重要なキーとなるのが、ガス窯である。

1930年、美濃・大萱(おおがや)で桃山時代の志野・瀬戸黒の古窯趾を発見した荒川豊蔵は、それを復興すべく、穴窯(薪窯)を築く。以来、志野は薪でないと、という薪窯信仰が根強く残る。しかし、鈴木は考える。父は石炭窯で志野ができないか研究を重ねていた。志野で一番大切なのは緋色である。石炭でも良い感じで色が出た。だが、売れなかった。さらに鈴木は考える。その時代の技術を活用し、作品をつくる。それが現代に生きることではないか。ガスバーナーが生まれ、ガス窯ができたとき、酸化炎と還元炎を自由に切り替えられることに魅力を感じた。しかし、ガス臭いだの、薪で炊いたご飯に勝るものはない、焼き物だって同じだ、と中傷されたりもした。

しかし、言われれば言われるほど、やってみる価値があると思った。すべてが手探り。試行錯誤の連続だった。最初は小さなガス窯でトライした。ところが、バーナーの火口がステンレスだったので、長時間焼いているうちに融けてしまう。そのうち、火口が磁器の窯が入ってきた。これならば、長時間焼いても影響がない。ここからが試験室育ちの本領発揮である。試行錯誤の際、たとえば、焼成方法を迷ったとき、うまくいった方法が右ならば、必ず左も実験する。なぜ、うまくいったのか、直感よりもデータを重視し、常に、科学的な裏づけをしながら取り組んできた。火加減と釉薬のデータを取るために、試し焼きしたテストピースは実に1万点に及ぶという。

山の中を探し歩き、集めてきた古窯の陶片とろくろを回している画像
左/山の中を探し歩き、集めてきた古窯の陶片。
右/ろくろを回す指先がなんとも美しい。

鈴木がガス窯に自信を持てたのには、こんな話がある。高校を出た時分によく昔の窯趾探しに行った。荒川豊蔵の古窯趾発見以来、発掘が一時期ブームとなったが、この頃はもうすっかり木が覆い、どこにあるのやらわからない。しかも、ほとんどが持ち帰られていたのだが、生焼けの破片は拾われず、落ちていた。それをガス窯が来たときに順番に焼いてみた。「タイムスリップしたのと同じことです」。そうしたら、だんだん良い具合に焼けるようになってきた。結構、緋色はくるし、下の絵が浮き上がってきた。何度ぐらいで焼いたか、どういう環境で焼いていたか、おおよそ見当がついた。そして、「ガスで十分いけると思ったんです」。

志野は日本独特の焼き物。「日本人のものの考え方、美意識、日本人の思想を持ったものです。中国の焼き物はシンメトリーの端正な形。しかし、日本の焼き物はアシンメトリー。歪んだ形のものが多いでしょう。ことに、志野・織部はその典型。ろくろで回す際、あるいは窯の中で自然に歪んだものではなく、恣意的にデフォルメすることによって、心の宇宙を表現しようと思った。それは日本の焼き物だけなんです」。見えないものをイメージさせること。また、イメージできること。それは日本人だけの感性であるし、志野・織部の文化が成し遂げたことでもある。

志野茶碗の画像その4
志野茶碗 幅14×奥行13×高さ10.5cm

かつて、そんな日本ならではの美学、美意識を哲学した人物がいただろうかと考えたとき、世阿弥に行き着いた。さらに、それに近いことを考えたのは芭蕉ではないかと思い至った。芭蕉が芸術の根本理念を著した『笈の小文(おいのこぶみ)』冒頭の風雅論に、「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫道する物は一なり」と記している。それぞれの道は別々かもしれないが、根底を貫くものは同じ、日本人の美意識にほかならない。そう芭蕉は説く。鈴木はそれに深く頷く。そしてそれは、枯山水をつくり上げたといわれる夢窓国師の作庭、世阿弥の夢幻能にも通じる。そしてもちろん、鈴木の編み出す志野焼にも、である。哲学する茶碗は時空を超え、無限に広がり続ける。

鈴木 藏(すずき・おさむ)

1934年岐阜県生まれ。工業高校卒業後、<丸幸陶苑>試験室に入社。1959年初出品した現代日本陶芸展、日本伝統工芸展で入選。1982年日本陶磁協会金賞、1987年芸術選奨文部大臣賞を獲得。1994年重要無形文化財「志野」保持者に認定される。1995年紫綬褒章受章。

photographs Naruyasu Nabeshima
text Michiko Watanabe
お帳場通信 2018-19 冬号 掲載