人間国宝を訪ねて⑮
加藤 孝造 陶芸/瀬戸黒

人間国宝とは、重要無形文化財保持者のこと
岐阜県・多治見駅から車はどんどん山の中へ。細い坂道を登った突き当たり(一帯)が、加藤孝造さんの工房だ。ゆるやかな斜面の上にある建物の入口には「風塾」の扁額が。いかにも旧家なこの建物は、新潟の古民家を移築したものだそう。
まずは一服、と我々3人に出してくださった茶盌が、瀬戸黒、黄瀬戸、志野の作品。たっぷりした瀬戸黒の茶盌を渡された私は、緊張に少し手が震えた。抹茶の緑が漆黒に映える。わずかに波打つ茶盌の縁が唇にやさしく触れ、お薄がふわりと口に流れ込む。ごつっと男っぽい佇まいとは裏腹の、静かで温かい感触である。
加藤さんが、やわらかな和紙の名刺をくださる。名前の上に書かれた肩書きは、「陶工」のみ。それが、かえってずしりと重い。

右/「風塾」では、加藤さんの絵に迎えられる。
戦後すぐは洋画家を目指していた。岐阜県陶磁器試験場に入ったのも、ここなら、働きながら絵に没頭できると踏んだからだ。春と秋に上京しては、辻永(つじ・ひさし)や小絲源太郎、中村研一といった錚々たる人たちに絵を見てもらった。
その甲斐あってか、19歳で最年少で日展に入選。その後も試験場で自由気ままに絵を描き続け、東京の画家の内弟子に入ることに決めたところで転機が訪れる。場長の五代 加藤幸兵衛から、「土を絵の具と思えばいいじゃないか」と説得されたのである。
当時、試験場は全国屈指の規模を誇り、戦後クラフト運動の旗手だった柳宗理が、イサム・ノグチ、カイ・フランクらと連れ立って訪れ、また、土岐市長と懇意だった濱田庄司も訪ねていた。
戦前までの岐阜県の陶芸といえば、輸出用の10インチの肉皿が主流だったが、戦後、柳らの影響もあってクラフトに目を向けるようになる。柳らは研究室で、コーヒーポットなど、ペーパーデザインから実際に原型を起こしていた。それを鋳込み成型し焼き上げる。孝造はそんな姿に身近で触れ、クラフト運動に憧れた。

右/手前のお盆のように見えるのが、木製の手回しろくろ。
「今でも、陶芸というよりクラフトといわれたほうがピタッときますね。一点ものでなく、少量生産方式ですね。それが地元の産業に発展できると、身にしみて感じておりましたから。いまだに抜けませんね。地元のために何かならんかなと、常に考えております。地場産業に何か貢献できれば、自分が生きてる価値があるっちゅうことですね」(孝造は現在、若手育成のための私塾を開いている。その名が扁額の「風塾」だ)。
当時は、国を挙げて文化国家建設に燃えている時代だった。試験場には、重要無形文化財「色絵磁器」保持者、加藤土師萌(かとう・はじめ)もたびたび顔を見せ、直接話を聞くこともできた。また、後に孝造に大きな影響を与えることになる、重要無形文化財「瀬戸黒」「志野」保持者、荒川豊蔵との出会いも、この試験場にいたからこそのことである。
「戦後」も終わり、次第に体制が整ってくると、県職員としての職務に規律もできてくる。ひとり外れていれば文句も出る。しかし、幸兵衛場長は「オレがいるうちはいい」と、がっちりガードをしてくれた。
そのおかげで、のびのびと研究に打ち込み、創作にも励むことができた。だから、場長より先に辞めることなどできないと感じていた。
昭和45年、場長と共に職を辞す。

右/志野の焼成具合は表面ではわからないため、裏を見る。
荒川豊蔵は、加藤幸兵衛と同級生だったこともあって、試験場にたびたび顔を見せた。「豊蔵先生といえば、ここらでは、神様のような方だったんです」。
ある時、孝造が写真を参考に、宋代の鉢を作っていると、「こういう作り方をしたらどうだ?」と、話しかけられる。荒川と口をきいたのは、それが初めてだった。以来、時々、作品を見てもらうようになる。だから、試験場を辞めて、窯を開くときも荒川に相談した。
「先生の近くでやりたいと言って……。ここの場所も先生と選んだんです」。荒川の助言で、桃山窯を築くのだが、条件通りの場所探しに難儀した。
「北西の斜面、小高いところ、一方が切れておるところがよい。窯は、ちょうど徳利を縦に割って伏せたような形なんですが、煙突もないので、季節風が一定の場所から吹きつけるところがよい。勾配が大事なんですね。そして、雑木林があって、谷水があるところ」。土に水は欠かせない。そして、見つかったのがここだった。
荒川の工房の近くに築窯したおかげで、孝造のもとにも珍客がたびたび訪れた。画家であり、書家であり、洒脱な随筆でも知られる中川一政、岐阜県出身の洋画家、熊谷守一、仏像彫刻で知られる澤田政廣、東大寺管長などなど。荒川を訪ねた帰りに寄って、茶を所望する人、孝造の器に絵付する人、いろんな人がいた。さぞや濃厚な時間だったに違いない。

右/桃山窯。薪を細く割り、割り木を作るのも大切な作業。
荒川は折に触れ、「もの作りとしての心持ち」を教えてくれた。たとえば、テレビでスキーのジャンプ競技を見ていたときのこと。ジャンプの後、選手がスキーを担いでジャンプ台に戻る姿を見て、「わかるか」と荒川が聞く。
「は、何が?」と孝造が問い返すと、「ああして戻る間に、次の飛ぶ気持ちを作っているんだ。あの時間がないと、次がうまくいかないんだよ」というのである。ことごとく、そういう含蓄のある話をしてくれた。
釉薬についても、孝造は試験場で研究し、あれこれブレンドして、志野や織部を造っていたが、荒川は、「探せば、必ず原材料はある」と言うのだ。「自分の足で見つけるのも、ひとつの研究ではないか」。むしろ、そういうものを見つけることが大事である、と。
「できなければ、勉強すればできるようになる」。でも、若い孝造には、そんなふうにはなかなか考えられなかった。「今頃になって、やっと少しわかるようになりました。ともかく、先生は自然主義というのか、徹底してましたね。何か余計な手をかけて、早く上手く、といったことがお嫌いでした」。
薫陶を受けた孝造のもの作りもまた、すべてにおいてシンプルである。

中/瀬戸黒茶碗を手にする、加藤孝造さん。
右/美濃のもぐさ土。これで3カ月ほどねかせたものだ。
瀬戸黒は荒川豊蔵によって、復興されたものだ。制作の流れはこうだ。まず、土をつくる。これに3カ月。そして、窯焚きには3晩4日を費やす。その前に捨て焙(あぶ)りが3日間。
これは、「窯の中の水分を抜くと同時に、窯の前と後ろの温度差をなくすための時間」だ。志野、黄瀬戸、そして上手(かみて)には瀬戸黒、と3種を同じ窯に入れる。古い桃山窯からも、どれかが単独で出てくることはほとんどないそうだ。
いよいよ本焚き。攻め焚きで温度を上げていく。「でも、ただ薪を入れればいいというものではない」。窯の中の空気、圧力を見ながら、割り木を5分間隔ぐらいで入れていく。本焚きは5人体制でとりかかる。
一人は窯に設けた穴から吹き出す炎を見て、勢いが弱ったときに声をかける(加藤さんは「ほのほ」と言う。火の穂。その音が美しい)。一人はその声に即反応して、焚き口から割り木をくべる。一人は割り木を渡す係。一人は束を持ってきてほどく。一人は飲食物の世話をする人。1000℃を超えると、炎が白く輝いてくるという。

下/個展をする際に、荒川豊蔵がしたためてくれた案内状。
瀬戸黒の漆黒は、焼成途中で引き出し、冷水につけて急冷することにより発色する。釉は、長石と灰と鬼板の3種だけ。高温で引き出すという技術は樂焼にもあるが、樂の場合は900℃ぐらい。こちらは、1200℃以上の窯から取り出すのである。
「ほのほがとろっと弱まってくるんです。2晩目ぐらい経った頃です。それを見はからって、ひと晩がかりで出していきます」
鉄製の長いハサミ(“やっとこ”の特大版のような感じ)で、真っ赤になった器を引き出し、水につける。いつ引き出すか。一瞬の判断ですべてが決まる。すーっと窯の中にハサミを入れて、器に映る炎の影を見て判断することもある。「今どき流行りませんが、勘ですね」。
引き出す穴も大きくはない。少しでもぶれたら、茶盌が当たりそうなほどである。どう水にくぐらせるかも重要だ。「伏せると、器の中の空気が膨張してパンとはぜてしまう」。躊躇するとダメ。中と外の温度のバランスが要なのである。トロトロしていると、志野もダメになってしまう。
こちらの穴、向こうの穴と2カ所を行ったり来たりしながらの作業は、ハサミが重いこともあってへとへとになる。長期戦でとりかかり、決戦は一瞬。瞬発力、決断力が問われる。200個焼いて、まずまずと思われるものはほんの2、3個だという。
美は数多(あまた)の犠牲の上にある。
加藤孝造(かとう・こうぞう)
昭和10年岐阜県生まれ。昭和26年岐阜県陶磁器試験場に入る。昭和37年日本伝統工芸展初入選。昭和41年日本工芸会正会員。平成22年、「瀬戸黒」で人間国宝に。
photographs Naruyasu Nabeshima
text Michiko Watanabe
お帳場通信 2014 夏号 掲載