人間国宝を訪ねて㉒
大角 幸枝 金工/鍛金

人間国宝とは、重要無形文化財保持者のこと
トントントン。鉄鎚が軽やかに規則正しいリズムを刻む。この秋(取材当時)、出品する作品「吊舟花生」の底部分を制作中である。打つ、というより撫でる感じ。素材をいたわるような、やさしいタッチだ。
ここは、東京・国分寺。大角幸枝のアトリエである。窓から明るい日差しが差し込む。窓に向かって置かれた机の左手には、薄い小引き出しが左右10段ずつくらい並んだ小さな棚がある。それぞれ、中にはタガネやヤスリが入っているのだという。「布目象嵌一式」と書かれた引き出しもある。
大角が重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されたのは、「鍛金」の分野。しかし、その仕事は鍛金だけではない。鍛金でボディをつくり、その上に布目象嵌で装飾を施すというものだ。

大学では美術史の工芸史を専攻したが、周囲はモノづくりの人ばかり。染織、漆、木工はじめ、いろんなことをやってみた。その中で一番自分に合うと思った素材が「金属」だった。
主に扱うのは金銀。「鉄は厄介だから」扱わない。何がおもしろいかって、素材がおもしろい。熱で変形する。簡単にいうことをきいてくれない。でも、時間をかけて、じっくりとつき合ううち、次第に思いに応えてくれるようになる。時間はかかるが、文字通り、打てば響くようになる。その時間がおもしろいのだ。
とはいえ、「仕事をしている中で、素材の気持ちがわかってきた。そう思えるようになったのは、ごく最近のことですけれど」。

最初に始めたのは彫金だった。昭和40年代、彫金はちょっとしたブームで、アクセサリーのつくり方を教える趣味の教室が花盛り。大角は学生時代から、大学の助手の方の教室で、彫金、鍛金などを習ううち、伝統工芸の先生に教わるようになる。
まず、井伏圭介が講師で来ていた教室へ。その後、桂盛行に伝統の彫金技術を習う。ところが、彫金という細かい仕事を突き詰めていくのが、だんだんきつくなってきた。そのうち、彫金よりも、大きな仕事に移りたいと思うようになる。
彫金作家は、ボディとなる器は外注するのが一般的だ。だが大角は、形そのものから自分の手でつくりたくなったのである。思い描くボディの形が、あたりまえの形ではなくなってきたため、人の手に委ねにくくなったことも理由の一つだ。
鍛金は、関谷四郎から学ぶことになる。関谷は「鍛金屋は金槌以外持っちゃいかん」という先生だった。
当時、鍛金を志す女性は少なかった。溶接技術の勉強に職業訓練所に行くと女性はただ一人。まさに紅一点だった。それどころか、当時は、仕事は男性がやるものだという風潮がまだまだ強かった。鍛金という力仕事なら余計である。「よく、あれ、女がいるよ、といわれました。でも私、子供の頃から腕力がありましたから(笑)」。

中/作品のモチーフの一つでもある貝殻。
右/たくさんの鉄槌が置かれた棚。
ほんとうのことをいうと、学生時代に一番興味があったのは鋳金だった。でも、すすめられることはなかった。鋳金は一人でできない仕事でもあったが、何より女性に向いていないというのが理由だった。「ま、何でも女性に向かないといわれた時代でしたけれど」。
ともかく、女性の社会進出が難しい時代だった。アメリカでも女性解放運動が盛んな時代だったし、日本でもウーマンリブだ、なんだと、かまびすしかった。入社試験では「何年勤める気なのか」と聞かれ、よしんば仕事に就けても、「どうせ腰掛けなんだろう」といわれる。だから、女性はみんな頑張った。そんな時代だったのである。
そんな中で、大角は自分のやりたいことを淡々とやり続ける。もちろん、男性社会に分け入っていく女性は、突っ張らなければつぶされる世界である、それは大角も同じだった。
かといって、男性に敵対するつもりは毛頭ない。土台、違うものなのだから、いいところを認め合えばいい。

右/南鐐水指「涛声」 径20×高さ17cm
30歳になった頃、展覧会に出してみてはどうかとすすめられ、彫金作品を伝統工芸展に出品するようになる。関谷のもとで鍛金を習い始めてからは、ベースとなる器も自分でつくり、そこに彫金で装飾を施したものを出品するようになる。そして、少しずつ展覧会中心の生活へとシフトしていく。
作品発表の場があることはありがたい。落選したら落ち込むが、入選すれば嬉しいものだ。励みにもなる。「もしも展覧会がなかったら、自分の人生はどうなっていただろうと思うと不思議です」。
ただ、展覧会中心の創作活動になったからといっても、それだけで生活できるわけはなく、身過ぎ世過ぎも考えないと。ということで、いろんな仕事をやってきた。非常勤講師、助手、通産省(現・経産省)技官……。
その中で、わかったことも多かった。振り返ってみて、何一つムダなことはなかったと思う。照明デザインの事務所では、図面が引けなかった。習っても引けないのだ。ここで引く線は、すべて生産ラインにのせるための線。自分の対極にあるものだった。
思い知ったことは、自分の中には工業デザイン的なものが何一つないということ。そして、自分の中にないことはモノにならないということだった。「無機的なものがあまり好きではないんです。有機的な、なんともいえない線や形のほうがしっくりくる。建築でいえば、ガウディとか」。

中/文様を鉛筆で下書きしたのち、サインペンでなぞる。
右/文様の内側にタガネで布目を細かく打ち込んでいく。
あるとき、10人ぐらいで、重要無形文化財「彫金」保持者(人間国宝)、鹿島一谷の伝承授業を受ける機会があった。そこで習った「布目象嵌」の技法がおもしろかった。すっかり魅せられた。鹿島の仕事に魅力を感じ、関谷に習った鍛金の器の上に鹿島の布目象嵌技法で彫金を施すようになる。「それが私の作風になっていきました」。
そして今日まで、そのスタイルをずっと積み上げてきた。
大角の作品は自然現象に題材をとることが多い。水が流れる、雲が行く、風が吹く……。
それから、自然の造形。たとえば、貝殻、昆虫の羽の文様、ひからびたヤモリ……。アトリエにはそんなモチーフが置かれている。
もちろん、スケッチしたものをそのまま作品に描き出すわけではない。形になるまでには、どんどん変わっていく。また、絵や書、あるいはお茶にお花、能や歌舞伎、演劇や文学など、教養を身につけることも大切と恩師から教わってきた。「人間が上等にならないと、いい仕事はできない」と。そして、「常に、デザインソースはないかと思いつつ歩いています」という。

中/微笑む大角幸枝氏。
右/上品な文様が浮かび上がった。
アトリエで布目象嵌の技法を見せてくれるという。アトリエは、しっかり防音しているが、それでも音は漏れるものだという。かつて、関谷の教室に通っている頃、鍛金の音がうるさいと隣人から注意され、しじゅう警察を呼ばれていた。そんな経験があるだけに、音漏れ対策には十分な手当てをしているが、夜8時以降は仕事はできないという。
布目象嵌、まずは、土台となるものを丹念に叩いて表面を整え、鉛筆で下絵を描く。タガネを使い分けながら、下絵の輪郭の中に布目状に線を入れていく。
「布目象嵌は、細目、粗目はあっても、雑目はない」というのは鹿島の言葉。細かく丹念にタガネを打ち込んだ目に箔をのせていく。最後に輪郭を打って切り離す。小さな模様が浮かび上がってきた。その形が、びゅんと飛んでいきそうな雲のようにも見える。
大角の作品をじっと見ていると、水面がゆらゆらと動き出す。波音が聞こえてくる。昇ってくる太陽が周囲を温かく照らす。そんな風に、作品の中で自然の営みが続いているように感じられる。金属といえば、どこか冷たく硬いイメージだが、大角の作品にはその冷たさがまったくない。やわらかく淡く、どこか控え目。そして、やさしく豊かである。
今日も大角は多忙な合間を縫い、アトリエでトントンと槌を振るう。素材と向き合い、語らいながら……。
大角 幸枝(おおすみ・ゆきえ)
1945年静岡県生まれ。東京藝術大学卒業後、桂盛行、関谷四郎、鹿島一谷(いずれも故人)に師事。1987年打出花器「風濤」で日本伝統工芸展日本工芸会総裁賞受賞など、数々の受賞歴あり。1988年、文化庁芸術家在外研修員として英国に1年間派遣。2014年第1回米国立スミソニアン協会客員作家に選定。2015年重要無形文化財「鍛金」保持者(人間国宝)認定。
photographs Naruyasu Nabeshima
text Michiko Watanabe
お帳場通信 2016 秋号 掲載