人間国宝を訪ねて㉕
伊藤 赤水 陶芸/無名異焼

人間国宝とは、重要無形文化財保持者のこと
新潟港から佐渡へ渡る。ジェットフォイルで約1時間。かつて、日蓮聖人や世阿弥はどん
な思いで海を渡ったのかとロマンに浸る間もなく到着。
東京23区よりも広いというだけあって、島という感じはまったくしない。海を望む小高
い丘の上にある伊藤赤水作品館へ。快晴、穏やかな海。しかし、そこは日本海。冬は荒々
しい様相に変わるという。
伊藤の「佐渡ヶ島」シリーズは、そんな冬の佐渡、そして佐渡島が歩み来た歴史を彷彿さ
せる。荒々しく力強い。武骨でほとばしるような生命力をたたえているが、非常に繊細な
面も感じさせる。そのなんともいえない存在感に心惹かれる。このシリーズの誕生は伊藤
が60代半ばの頃だ。

右/佐渡ヶ島壺 約幅24×奥行24×高さ26cm
伊藤は大学は京都に出たものの、生まれも育ちも佐渡島。先祖が金沢から佐渡に渡ってき
たのは、ゴールドラッシュに沸く1640年頃のことだ。「金山の恩恵にあずかろうという
ことだったのでしょう」。そこから数えて15代目になるという。
2代目は窯を築き、金山で必要な羽口(はぐち・錬金鍛冶に欠かせないふいごの送風管)を
土器で作った。「羽口屋甚兵衛と呼ばれ、土でつくるものを生業としてきたんです」。伊
藤家はその生業をつないで、今日まで歩んできた。
江戸中期、1700年代後半には、焙烙(ほうろく)やあんか、土瓶などの生活用品を作るよ
うに。そんなふうに、代を重ねるごとに生業の中身は変わっていった。
伊藤は重要無形文化財「無名異焼」保持者である。この無名異焼とはいかなるものか。佐
渡には今も金銀山の史跡が残るが、坑内から掘り出される酸化鉄を含んだ赤粘土は、昔か
ら、止血剤や中風に効く漢方薬として売られていた。その薬の名が“無名異”だった。

右/金属のヘラで表面を削り、形の微調整を行う。
「現在、私の工房がある相川町には、江戸時代、金山奉行が置かれ、江戸から大勢役人が
やってきた。彼らから、茶道や華道といった文化が伝わったんですね」。茶道具が必要に
なってきた1819年、7代目の伊藤甚兵衛が希少な無名異を陶土に混ぜて、楽焼の茶盌を
作る。
「献上品ですからね。漢方薬入りのやきものは、ありがたがられたのではないでしょう
か」。1873年には、9代目の富太郎が高温焼成に成功し、鮮やかな赤の無名異焼を確立
させる。
富太郎は明治時代初期から「赤水」と名乗ることに。儒者・圓山溟北(まるやまめいほく)
が、家の横の小さな川に金山からの赤い水が流れていたところから名付けてくれたのだと
いう。そして、伊藤で赤水5代目となる。
伊藤の父は44歳で逝った。父は、仕事場に子どもを入れなかったため、門前の小僧的知
識は皆無だった。大学に入る前のことだったので、まずは父が卒業した大学に入ることに
した。
母が「大学には行かせてあげる」と許してくれたのだが、2浪したから、随分と母のスネ
をかじったことになる。卒業すると佐渡に戻り、15人ほどのスタッフを率いる工房の主
となった。「僕らの世代は家業を継ぐのがあたりまえでしたからね」。

右/削り終えたら、小さな陶片でこすって艶を出す。
無名異焼の技術は祖父から引き継いだ。ちょうど高度成長期のまっただ中。無名異焼は、
みやげもの屋のヒット商品だった。
商売はうまくいっているが、自分はどうあるべきなのか。作家か工房の経営者か悩んだ時
期もあったが、「まがりなりにも作家として生きていきたい、という思いのほうが強かっ
た。大事なのは、ルーツがあって自分があるということでした。いかに、自分らしいオリ
ジナリティを表現するか。日本のガラパゴスともいわれる(笑)佐渡の地域性を生かすに
はどうしたらいいか、考えました」。そして、1966年から、本格的に作陶に取り組む。
作品群は大きく3つに分けられる。
まずは「窯変(ようへん)」シリーズ。無名異焼は真っ赤に焼き上げるのがベスト。一部黒
くなったものは失敗で、不良品扱いとなる。
「でも、それを逆転の発想で美しく生かそうと思った」。黒が入ることで、独特の赤が魅
力的に映えることに気づいたのだ。釉薬を使わず、焼き締めることで、赤と黒のコントラ
ストがより鮮やかになる。

右/佐渡ヶ島 約幅13.5×奥行13×高さ15.5cm
窯のどのあたりに置けば、どんなふうに窯変するかは、陶芸家ならばだいたい見当がつ
く。ただ、ある程度計算ができるものの、微妙な部分は炎の偶然性に委ねられる。
赤と黒という強い色同士がせめぎ合ったり、融合したりしているような、無名異焼の新し
い世界は高い評価を得て、1972年、日本伝統工芸展に初入選を果たす。そして5年後、5
代目 伊藤赤水を襲名する。
「窯変」が生まれてすでに何十年も経つが、今もって進化を続けている。作品群2つ目は
「練上(ねりあげ)」シリーズ。

「最初はストライプのような、線状のシンプルな紋様だったのですが、だんだん複雑にな
ってきて……」。では、あの美しい花紋はどんなふうに作っているのだろうか。
「何十種類か、色が違う土を積み重ねたり貼り合わせたりして、その断面が花になるよう
に考えるわけです」。どんなふうに綿密にプランニングすれば、あんな繊細な表情を持つ
花になるのか。不思議である。
美しい花々が咲き誇る「無名異練上鉢」で、1985年の第8回日本陶芸展の大賞・秩父宮
賜杯に輝く。しかし、それが完成形ではなかった。花紋は次第に複雑さが増し、まるで筆
で描いたよう。色はもちろん、グラデーションもより繊細に。とても重ねたり貼り合わせ
たりして構成したとは思えない。
「よくそう言われますが、成形した土と土をくっつけているので、微妙に作為的でない
“ゆらぎ”のようなものが線に出る」。まるで、花々にやさしい風をまとわせるように。
現在、島内には無名異焼の窯元が40軒ほどあるという。その大半が、伊藤の工房もある
相川町に窯を構える。相川町は、平成元年まで採掘されていた金銀山があった地だ。工房
を訪ねると、なんと敷地は300坪あるという。そばを流れる小さな川には、金山からの赤
い水が流れてきていたのだろうか。

中/伊藤赤水さん。
右/工房の敷地内にある小さな川。
さて、3つ目の作品群は「佐渡ヶ島」シリーズだ。
「練上を作り続けるうち、ちょっと自分に嫌気がさしてきたんですよね。何か違うもの、
もっと新しいものはできないのかって。もちろん、素材は佐渡で調達できるもので」。そ
うして生まれたのが、佐渡ヶ島シリーズだった。
素材として選んだのが、佐渡の荒海で波に洗われる岩だった。「ちょっと岩をいただいて
(笑)土に混ぜてます」。佐渡そのものを表現するような力強い作品群である。その自由闊
達な発想力よ。「いやいや、あがいた結果ですよ」。
陶芸家となって50年以上。いろいろな浮き沈みを経験してきた。しかし、その創作活動
の根っこにはいつも佐渡があった。「自分を生んでくれた佐渡、そして命をつないでくれ
た先祖に対する敬意は、年々深くなっています」。
バックグラウンドを大切にしながら、精力的に創作活動に励む。3つのシリーズは、いず
れも常にアップデートを重ねている。
伊藤 赤水(いとう・せきすい)
1941年新潟県は佐渡島生まれ。1966年大学卒業後、祖父である3代赤水から無名異焼
の技法を継承する。1977年に5代赤水を襲名。1997年日本伝統工芸展で高松宮記念賞
受賞。2003年重要無形文化財「無名異焼」保持者に。その作品は世界的にも高く評価さ
れ、米国、英国などの美術館に所蔵されている。
photographs Naruyasu Nabeshima
text Michiko Watanabe
お帳場通信 2022-23 冬号 掲載