何気ない日々・・・「もの」の奥にある物語
前田 由佳理 版画アートの世界
何気ない日々の奥に潜む物語を緻密な描写とともに独自の世界観で表現する、前田 由佳理さんの版画作品をご紹介します。
教師になる夢に向けて地元熊本大学の教育学部に進学した前田さんは、講義の中で「銅版画」制作の機会に触れ、小さな空間に繰り広げられる世界に魅了されました。大学卒業後、教師を続けながら多くの専門家を訪ねて銅版画を学び、版画作家として個展やグループ展で作品を発表。公募展でも数々の賞を受賞するなど、版画界のポープとして活躍されています。
そんな「教師」と「作家」という非常に多忙な生活を送っているさなか、平成28年(2016年)の熊本地震を経験。日常生活が一変する災害を目の当たりにし「一度しかない人生、自分にしかできないことをしたい」と決心し、令和2年(2020年)の春、作家活動に専念されました。
前田さんの描く作品には「何気ない日々」にある、さまざまな「もの」が描かれています。その中でも特に「食べ物」のモチーフの作品が印象的です。
「私たちが生きていくために生き物の命をいただいたり、たくさんの『もの』を消費し続けています。それら一つひとつに思いを馳せて、それらの奥にある物語を考えていきます」という前田さん。
「単に表面的に美しいだけのものとかではなく、『もの』を通して自分がどのように考えて生きてきたか、自分の軌跡としてまっすぐ表現したい」との思いが込められています。
観る者が多様な視点でその奥に潜む物語が感じられる版画アートをお楽しみください。
今回の特集に合わせて、版画作家になったきっかけや技法、制作するうえで大切にしていることなどを前田さんにお伺いしました。
作家を目指したきっかけについて
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アトリエにて
子どものころから描くことが大好きで、教師になりたいという夢もあったため、教育学部に進学しました。しかし、100号の真っ白いキャンバスと対峙した時、その威圧感に圧倒され、何も描くことができなくなってしまい、悶々とした2年間を過ごしました。
大学3年生の時、集中講義でハガキサイズの銅版画の作品を制作しました。画面が小さいので肩の力を抜いて描くことができ、とても楽しかったです。ここから私の版画人生がスタートしました。しかし、実は大学には専門の先生も銅版画の十分な設備や道具もなく、図書館で見つけた古い技法書が私の先生でした。版画用のプレス機も探しました。いろいろな所に問い合わせて、ようやく刷らせてもらえる場所が見つかりました。その中で作家の浜田 知明先生に出会いました。
浜田先生は私が版画家になろうと思ったきっかけを作ってくださいました。藝大の当時教授だった中林 忠良先生にお手紙を書いてくださり、藝大の版画科を見学させていただきました。その後、関東の版画工房に時々通い、摺師の方から技法を直接教わったり、銅版画を学んだりしました。表現や技法を獲得するまでに10年ほどかかりましたが、この中でたくさんの方々に出会い、支えてもらったからこそ、諦めずにここまで来られたのだと思います。
熊本地震を経験したことで、一度しかない人生、自分にしかできないことをしたいと決心し、学校を退職して本格的に作家として歩み始めました。
今は、「ポッポ」と小気味良いを汽笛を鳴らして走り去る蒸気機関車を眺めながら、熊本のこじんまりとしたアトリエで日々制作をしています。
版画の技法について
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アトリエにて
銅版画は、腐食液に浸し、版を腐食させるプロセスがあるのですが、版が朽ちていく様は、私たち生き物の一生と似ていると感じています。エッチングは私が直接描いた線ではなく、腐食液につけることによって作られる線です。その間接的な行為がとても面白いと思います。インクの黒の深い色にも惹かれています。
私の作品はコラグラフ(紙版画)もよく使用します。紙に写し取られたさまざまな質感が好きで、毎回いろいろな素材を紙に貼って版を作っています。
コラージュをしている作品も多いです。私の作品は基本的には版画なのですが、そこからコラージュをしたり彩色をします。エッチングの作品を1版で刷るよりも多くの版と時間を要しますが、もともと私は作品を作るときに、頭の中で描きたいものをどんどんシールのようにぺたぺたと重ねて貼り付けていくイメージがあったので、コラージュという手法は私にとって良い表現方法だったのかもしれません。
制作するうえで大切にしていること
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アトリエにて
私の作品は、何気ない日々が題材です。
私というフィルターを通して、食べたり、感じたり、消費したり、経験したりしたものを、私の中で噛み砕いて消化してから作品を生み出すようにしています。
私の作品には食べ物がよく登場します。それは食べることが好きだからです。私たちが生きていくために生き物の命をいただいたり、たくさんの「もの」を消費し続けています。それら一つひとつに思いを馳せて、それらの奥にある物語を考えていきます。単に表面的に美しいだけのものとかではなく、「もの」を通して自分がどのように考えて生きてきたか、自分の軌跡としてまっすぐ表現したいと思っています。
最後に、私は作品を作りながら、年齢に関係なく、いろいろな世代の方に何か感じてもらえるようなものがつくれたらいいなと思っております。皆さまのそれぞれの視点で作品を見ながら、それぞれのストーリーを紡いでいただけましたら幸いです。
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「Vegetable Parfait」
技法:エッチング+アクアチント+コラグラフ+コラージュ+手彩色
限定制作数:10部
イメージサイズ:約 25.5×16.5cm
額サイズ:約 41.8×32.5cm
作家コメント
パフェシリーズ、第1番目の作品です。私は甘いものが好きです。中でも、特別なスイーツがパフェです。何層にも重なる味わいや食感、そして色味などの見た目も楽しいです。
ある日、喫茶店でふと周りのお客さんを見渡しました。パフェなどのスイーツを食べるとき、みんな幸せそうな表情をしています。気持ちが沈んでいる時でも甘いものを食べるとちょっとだけ元気になれます。
今パフェシリーズの作品は、すべて手彩色を施し、コラージュをしています。いつもピンセットを手に持ち、ルーペを覗きながら作っています。
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「Vision Test」
技法:エッチング+アクアチント+ドライポイント+雁皮貼り
限定制作数:20部
イメージサイズ:約 26.2×18.2cm
額サイズ:約 40.0×31.0cm
作家コメント
先日、健康診断で視力が落ちていることに気づきました。いつもじーっとルーペを覗き込んでいるのでそれが原因かもしれません。部屋に視力表を貼っておこうかなと思いましたが、なんだか味気ないなぁ。
そうだ!アートと視力表を融合させたら一石二鳥!?とひらめいて作りました。ホタルイカもじゃこも観察して描きました。描き終わったあとは、私の胃袋へ。おいしかったです。
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「BITE!」
技法:エッチング+アクアチント+コラージュ+手彩色
限定制作数:20部
イメージサイズ:約 26.0×18.0cm
額サイズ:約 40.5×31.2cm
作家コメント
この作品のシリーズは、深い黒の色味に惹かれて作りました。
背景の黒とハンバーガーの色の対比が面白いと思いました。このハンバーガー、実はコラージュをしています。版画がベースなのでエディションはありますが、厳密にいうとコラージュの部分は、柄がまったく同じにはなりません。一点一点が兄弟のようなものです。
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「赤いダリアと丸いパン」
技法:エッチング+アクアチント+コラージュ+手彩色
限定制作数:10部
イメージサイズ:約 18.0×28.0cm
額サイズ:約 31.3×40.3cm
作家コメント
ある日、畑の畦道を歩いていると、大きくて真っ赤なダリアの花が咲いていました。スマホでパシャパシャとダリアの写真を撮っていたところ、畑の持ち主の男性が来られて、ダリアを1輪プレゼントしてくださいました。
球の形をしたダリア。パンの形に似ているなぁ。帰りにパン屋へ直行し、食べたい気持ちを我慢しながら、ダリアと丸いパンたちを机に並べて描いていきました。お腹がぐーっといつまでも鳴り続けていました。
2005年 「大野城まどかぴあ版画ビエンナーレ」奨励賞
2006年 熊本大学大学院教育学研究科修了 「横浜開港記念国際版画交流展」(BANK ART 横浜)
2010年 グループ展「版人」(熊本県立美術館) 個展「キッチンと風」(D-eye ギャラリー 熊本)
2011年 「英展」(田川市美術館 福岡)
2012年 「熊本県美術協会展」協会賞(熊本県立美術館) 「FEI PRINT AWARD」入選
2014年 「第13回南島原市セミナリヨ現代版画展」西日本新聞社賞 「第88回国展~新しい眼~」(国立新美術館 東京) 個展「食すこと」(olmo coppia 熊本)
2015年 「第6回山本鼎版画大賞展」優秀賞 「三越美術逸品会」特集作家(日本橋三越本店 東京) 「アワガミ国際ミニプリント展」賞候補 個展「わたしのカタチ」(なかお画廊 熊本)
2016年 「FACE展2016 損保ジャパン日本興亜美術賞展」入選
2017年 「アワガミ国際ミニプリント展」入選 「第7回山本鼎版画大賞展」入選
2018年 3人展「アートで紡ぐ物語」(伊勢丹新宿店 東京)
2019年 個展「Life」(REIJINSHA GALLERY 東京)
2020年 「文学とアートの出逢い 装幀画展Ⅷ」(パレットギャラリー 東京) 「第12回香梅アートアワード」奨励賞受賞 「注目の若手作家3人展」(福岡三越 福岡)
2022年 「PAT in Kyoto 京都版画トリエンナーレ」(京セラ美術館 京都) 「Emerging Artists 次世代を担う注目の作家たち」(銀座三越 東京)
2023年 個展「日常note」gallery CONTAINER(岩田屋本店 福岡)「第66回 CWAJ 現代版画展」入選 (ヒルサイドフォーラム 東京)
現在 熊本学園大学非常勤講師 アトリエリスタとして幼児の造形活動に携わる