人間国宝を訪ねて㉑
須田 賢司 木竹工/木工芸

人間国宝とは、重要無形文化財保持者のこと
玄関に足を踏み入れたとき、正面の掛花入れの捶撥(すいはつ)が一瞬キラッと光ったような気がした。なんだろう?
よく見ると、品よくちりばめられた象嵌の貝だった。夏椿が一輪生けられた、このモダンな花入れも、須田賢司の作品のひとつである。
群馬県は甘楽町(かんらまち)にある須田の自宅&工房を訪ねる。世界遺産に登録され、観光客で沸く富岡製糸場のご近所といったらいいだろうか。緑の木々に囲まれた、落ち着いた佇まいだ。
須田は昨年(取材当時)、「木工芸」の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されたばかり。指物(さしもの)を主なフィールドとする木工芸家である。
「指物は、数ある木工技法のひとつ。大きく分けて、刳物(くりもの)、挽物(ひきもの)、指物と分けられますが、指物は、歴史的には、道具の発達とともに最後に出てきた技法です」

右/ホゾが施された板。蟻組というくさび形のホゾもある。
丸木舟などに代表される刳物はプリミティブな技法で、産業にまでは発展せず、今はアートの世界で用いられる程度。挽物はろくろや旋盤など動力で木の塊を挽き、茶托やお盆、お椀などを作る技法。
そして指物は、木と木を組み合わせて家具や器具を作る技法。差物とも書く。「ホゾ」という突起を作り、「ホゾ穴」という受けを作って差し合わせる。だから差物、という説もあれば、物差しできちんと測るから差物という説も。金釘を使わず、見えないところに技術を注ぎ込む。
自宅の壁にかけられた一葉の古い写真が目を引く。白装束に身を包んだ男たちが、緊張した面持ちで収まっている。献上品を作るため、全員が斎戒沐浴(さいかいもくよく)をして臨んでいるところだそう。
写真の中央にいるのは、明治から昭和にかけて活躍した指物師・前田桑明。須田の祖父の師である。

前田は伊豆七島・御蔵島の島桑を用いた指物を、美術工芸品の域にまで高めた人。すぐ側に控えているのが一番弟子だった祖父・須田桑月だ。祖父は岐阜県関市で宮大工をしていたが、30歳で上京。師の元で指物を学び、極めた。
父・桑翠は5人兄弟の長男だったため、当然のことのように後継ぎとして育てられた。三代目となる須田は、小さいときから、外で遊ぶより父の仕事場にいることが好きだった。
父は決して「やれ」と言ったことはなかったが、自然と木工芸へと導かれた。
「祖父は偶然、父は当然、自分は自然。そして今、この年になって初めて、この仕事が必然だったんだなと思う。偶然、当然、自然、必然、と四題話になるわけです」
座布団を差し上げたくなるような話であるが、工芸の世界はことほど左様に、代々、長い時間をかけ、暮らしの中で自然と身につく感覚が大切なのだという。「学校で学ぶことも大事ですが、趣のある暮らしが身についていないと、知らないでチグハグなことをしていることも多いのです」。

右/楓拭漆鋲装長方箱 幅32.4×奥行8.7×高さ5.8cm
父は、須田が25歳のときに他界した。ともに働いた時間は短かったが、そのあと、困ることはなかった。新しい仕事をしようというとき、父がこういう道具を持って、こういう手つきでやっていたな、と頭に浮かぶと、自然と手が動いた。
子供の頃から父の仕事のみならず、その生活ぶりを見て育った。木工芸はもちろんのこと、陶芸、漆、金工、染織に通じ、茶道をはじめ、華道や書など、日本文化に造詣の深かった父は、季節の移ろいに細やかに対応。花を生け、お軸やお道具にも心を砕いた。
須田は、お軸の出し入れなどを手伝ってもきた。そうやって、身につけたことも多かった。今は、自身で花を生け、お軸を飾る生活だ。
西洋ならば、何百年も同じ場所に絵を飾ってあるなんてことがざらにある。日本の場合は、そんなことは有り得ない。ある季節、ある日、ある時間、ある客人のためにふさわしいしつらえを用意する。
作品づくりには、そういったシチュエーションを想定することも必要だ。それは日々の生活から生まれてくることである。
「実用品のスタイルを借りてはいるが、実用品というスタンスではない」。これも、日本の工芸の特殊性である。昔ながらの技術を用い、具体的に使える形をとっているけれど、質的にはまったく異なるものだ。「機能を備えながらも、何らかの“表現”が加えられている」のである。

右/東洋文化の知を注ぎ込み、木で美の小宇宙を構築する。
須田の代表作品群のひとつに「箱」がある。箱は、本来は中にモノを入れるもの。だから、作品を見た人が「何を入れるんですか」と尋ねたりもする。でも、絵を飾るのと同じ感覚で見てほしい。また、飾るだけなら、蓋が開かなくてもいいのでは、と思う人もいるが、開くから箱、中があるからこそ箱なのである。
「中は深淵なる空間といえる。中も、いや中こそ、外側以上の力が欲しい。そういうところに配慮していくことも工芸なんですよね」。重さについてもしかり。持ってみて持ち重りするのはよろしくないのである。
「音楽は聴覚、絵や彫刻は視覚の芸術でしょ。工芸は触覚の芸術だと思っています。手に持って触って、非常にプライベートな世界。掌中で愛玩する世界なんです」
須田は中国の文房具が好きだという。日本文化の機微のみならず、東洋文化の粋たる中国文人の趣味の世界にも明るいからだろう。
漢詩からインスパイアされた作品も少なくない。書斎にひとりこもって愛でる、あるいは佳客と鑑賞し語り合う、まさに「文房清玩(ぶんぼうせいがん)」。小さな世界に美の宇宙を表現したものが多い。
須田は今春の作品展(取材当時)にあたって、「清雅を標に」というタイトルを冠した。
「清雅」とは、「清らかで洗練された優雅」という意味である。「雅」は「正」と同意で、正統という意味だそうだ。
「たとえば雅楽の雅は、俗楽に対して、雅正の楽という意味に使われます」。自分も常に「正統」な立場でありたい。オーソドックスに真っ当に、やるべきことをやっていく。そして、正統な技法を作品をもって後進に伝えていけたら。そう思っている。

右/手製の油壷。椿油をしみ込ませてある。
「木工芸にとって、材料の管理は一番の仕事」。須田が甘楽町に越して23年になる。群馬の地を選んだのは、空っ風で知られるように空気が乾燥していること、そして、長く保管しなくてはならない木を置くための広い場所が確保しやすかったことからだ。
工房にある湿度管理された保管庫には、多くの木材が眠る。「木材はワインと似ているところがあるんです。乾燥させるというよりも木を熟成させている。安ワインはいくらおいても熟成しないでしょ。同じようなことが木にもあるんです。いい木ほど、長期においたほうがいい」。
計器もあるが、触ったり持ったりして、使いどきを見極める。工房内の保管庫は、10年ぐらいおいたものを、使う環境で1年ぐらいおくためのものとか。「銘木でなくても、その木が持っている物語が大事。そして、その物語を木の所有者がどれだけ知っているか。もっというと、作るものによって、何でもなかった木が銘木になっていくこともあるんです」。
木目の美しさについて、須田はこう語る。
「木には、その木の持っている雰囲気なり、捨てがたい格調なりがある。それに左右されることもないが、無視してもいけない。木の持っている氏素性を十分に知っていないと木工芸家にはなれない」

中/道具の手入れも大事な仕事だ。
右/工房には道具がずらり。壁面にはノコギリが並ぶ。
須田がよく使うのは、バイオリンに使うフランスの楓(かえで)である。須田が使う以前は、工芸に使った人はおそらくいなかったろう。須田と木とが一体となって紡ぎ出す、見事な有機的な文様は、鑑賞する者のイマジネーションをかき立てる。
ゆらゆらと水面できらめく日の光、等伯の絵のような幽玄の世界、妖艶にあたりを照らし出す月光……。木と木が構築する、緻密で繊細な世界。
「一見、ぶつけた(突き合わせた)だけで、一番飾り気がないように見えますが、中でホゾを組んでいるんですね。そのほうが引き出しにはすっきりするんです」など、作り方を聞けば聞くほど、粋というのはこういうことか、と思い知る。
須田は木を操るのみならず、漆芸、金工にも秀で、作品に漆を施し、金具もすべて手がける。紐も組み、作品を納める箱まで作りそうな勢いだが、さすがにそれは、外注しているそうだ。
しかし、万事に通じていなければ、注文もままならない。つくづく、日本の工芸は、一芸に秀でるだけでは戦えぬ。木工芸であっても、そこで表現されているのは総合芸術なのだと痛感する。
須田はまた、バイオリンづくりの聖地ともいうべきイタリアのクレモナで木工家具の修復技術を学んだり、スウェーデンの大学で指導にあたったり、ニュージーランドで活動したりと、世界での活躍も目覚ましい。
伝統技術を守り、伝えながら、グローバルな視点から、常に新しい表現を模索し続ける。
作品の美しさにため息つきつつ、この引き出しを開けたり閉めたりしたいという衝動にかられる。自らの所有物にして密かに愛玩したくなる。そんな誘惑に満ちた作品群。ぜひ触れてみてほしい。
須田 賢司 (すだ・けんじ)
1954年生まれ。1973年東京都立工芸高等学校を卒業後、父・須田桑翠に師事。外祖父・山口春哉に漆芸を学ぶ。1975年第22回日本伝統工芸展初入選。2010年紫綬褒章受章。2014年「木工芸」で重要無形文化財保持者(人間国宝)に。日本工芸会理事。
photographs Ryo Shirai
text Michiko Watanabe
お帳場通信 2015 秋号 掲載