人間国宝を訪ねて㉓
福島 善三 陶芸/小石原焼

人間国宝とは、重要無形文化財保持者のこと
福島善三の中野月白瓷(げっぱくじ)の肌合いに、暮れそうで暮れない白夜の北欧の空を見た。早い夜ではない、深夜の空の色だ。少し暗いところで見ると、スウェーデンの海沿いの町の、寒そうな冬の雲の色にも見えた。明るいようで明るくない、暗いようで暗くない、冷たそうなのに柔らかく温かい。深い不思議な色だ。
福島は福岡県の小石原焼の窯元の十六代目として生まれた。1989年(平成元年)に小石原村(当時)で発掘された上の原古窯跡は、筑前福岡藩第三代藩主黒田光之の時代、1682年の開窯とされるが、その際、出てきた窯の印である陶印の中で、唯一、現存する窯が福島の実家である「ちがいわ窯」のものだった。つまり、小石原でもっとも古い窯の一つということになる。

右/鹿の皮で縁を滑らかにする。
小石原焼には、かつて「一子相伝、分家ならず」という掟があった。それが昭和30年代後半に破られる。民陶、また民藝ブームでにわかに注目を集めたこと、また、それまでの登り窯と違って、ガス窯が普及し、個人規模でできるようになったことも一因だ。福島が大学を出て実家に帰る頃には、もともと8軒だった窯元が40軒を超えるまでになっていた。
子供の頃から、父や祖父の真似をして蹴りろくろもマスターしていた福島だが、大学は美大ではなく一般大学で経済を学ぶ。いや、実のところは遊んでいたのかもしれない。いずれ、ちがいわ窯の当主になるのだ。大学生活はエンジョイしなくちゃ。
卒業前に3週間ほどかけて全国の窯場を見て回った。どこかで留まって勉強しようかと思ったのだが、小石原のろくろの技術の高さを再認識する旅となった。ろくろは楽しい、と福島は言う。

さて、実家に戻った福島は家業に精を出す。湯飲みや徳利を作り続けた。同時に、祖父から「釉薬が大事。釉薬は経験だから」と言われ、帰ってすぐから釉薬の勉強も始める。父が窯入れをすると言えば、サンプルを20も30も入れて実験を重ねた。
一つの色を出すには5年10年かかる。小さなもので思い通りの色が出ても、大きくすると色が合わない。そんなことの繰り返しである。それでも続けた。本もいろいろと調べたが、その通りにやっても見本の色になることはなかった。それでも、「あきらめず、ねちっこくやることです」。
釉薬を調合するのはおもしろい。だが、ピントを合わせるのは至難だ。実験は天然のものではなく、化学的な合成もので行う。天然だと同じ木の灰でも木の種類によって異なったりするため、実験になりにくいのである。合成で経験を積んでおけば、天然に応用可能だ。
15年間は、合成もので実験を繰り返したという。日中は家の仕事でろくろを回し、夜は自分の時間。釉薬の実験や自分の作品づくりにあてる。そんな生活を10年は続けた。

右/粉状にした粘土に水を加えておき、沈殿させる。
ところで、小石原焼と聞いて誰もが思い浮かべるのは伝統の飛鉋(とびかんな)と刷毛目だろう。逆にいうと、飛鉋と刷毛目さえ入っていれば小石原焼だと人は思う。世は民陶ブーム。中には粗雑なものも小石原焼として出回るようになっていた。福島は、それとは違うものを作らない限り、自分の存在意義はないと考えるようになる。
福島が祖父や父から聞いた話によると、小石原焼の特徴とされる飛鉋は昭和初期に始まったものだそう。つまり、新しく生まれた伝統なのである。ならば、これから自分がやろうとするトライアルも数十年経ったときには、伝統となっているかもしれない。そうも思った。
福島が33歳のとき、母が亡くなると、父は突如として代を譲ることを決めた。変わらず数を作る仕事と併行しながら、作品づくりにも励んでいた。小石原は恵まれた地で、現在も原料が涸(か)れておらず、地産地消ではないが、粘土、鉄鉱石、長石など、すべての要素が手に入る。
福島の作品は、材料のほとんどすべてを小石原産にこだわる。しかも、粘土づくりから、土をこね、ろくろを回し、釉薬をかけ、焼き上げる。その作業をたった一人でこなす。
「粘土を作るの、嫌いじゃないんです。ろくろも楽しい。釉薬は大事。となると、弟子にまかせられなくて」と、苦笑する。
小石原の粘土は、鉄分を含んで粒子が粗いのが特徴だ。「粘土に水を加えて撹拌し、時間をおいて、粒子が細かくても重いものは下に沈ませて、上水だけを150目のふるいにかけるんです。こうすると粒子が細かくて収縮の大きい粘土になる。不純物がない分、貫入は入りにくいけど、変形がすごいんです」。

中/釉薬に用いる赤谷長石。
右/これも釉薬に用いるワラ灰。小石原産だ。
福島の名が一躍知られることとなったのは、1999年、「中野飴釉掛分鉢」が日本陶芸展で大賞を受賞してからだ。なんと、「初めての試みが成功した」ものだという。中野は今も粘土を掘り出している場所。福島の本籍地でもある。作品をお見せできないのが残念だが、「小石原の原料を組み直して、自分だけの『中野飴釉』を作ったんです。普通、飴釉はつるっとしていますが、研究を重ねて、マットにした」。
飴釉は流れやすい。その流れを止めるために、釉薬の中に粘土を加えている。「これは、昔からある小石原の技術。粘土は釉薬の耐火度を強めます。しかも、小石原の粘土は鉄分が多いので飴色が深くなる」。
シンプルな形の洗練されたフォルムに、飴釉は「深みのある濃い藍色を呈し」(故・林屋晴三)ている。長年研究を続ける釉薬のテクニックが遺憾なく発揮されたものだ。縁には飛鉋の地紋。「どこかに小石原の匂いを残したいと思ったんです」。

右/赫釉(かくゆう)香炉 径14.5×高さ15.7cm
上の写真の鉄釉の鉢も同様、縁の焼締め部分と釉地の掛け分けが苦心のポイントだ。「縁には薄く薬を掛けてるんです。それが釉地とかぶる。かぶり方が大きいと線が太くなる。でも、かぶりを少なくすると、線が切れるおそれがある。そのギリギリのところで一本、緊張感のあるシャープな線を出すわけです」。
いきなりの大賞を獲得したあとも苦労だった。同傾向のものは出せないぞ、とか、もう出すなと周囲から言われるも、4年後には「鉄釉掛分条文鉢」で日本伝統工芸展総裁賞を受賞。さらには2013年、「中野月白瓷深鉢」で、同展の高松宮記念賞を受賞する。この中野月白瓷は、福島の青磁への憧れが発端だ。
先にも述べたが、小石原の土は鉄分を含み、粒子が粗い。有田のような磁器の陶土が画用紙だとすると、小石原の土はボール紙だという。「薄い色の釉薬をかけても、きれいに出ない。白い粘土には敵わないんです。だから、鉄をかけて深い色にしようとする」。

中/福島は、ちがいわ窯十六代目当主。
右/コテで挟んで縁を立ち上げていく。
小石原で青磁をやるならどうすればいいか。外からの土で青磁をやっても、それは自分の理想とする小石原焼にはならない。モヤモヤが残る。そういえば、中国には月白釉というものがあって、西安でその破片を見たことがあった。
そのとき、青磁ではなく、月白釉ならいけるかもと思う。中国では大豆の灰を使っていたのをヒントにして、「小石原のワラ灰を使ってみよう」と思う。それにより、「ワラ白といって、黒い部分が緩和されて乳濁するんです。それが月白瓷の嚆矢でした」。
同じワラでも、もみ殻灰なら青みが出る。ならば、「鉄分を含む小石原の長石を使ったら青みが出るかなと」。そこからは試行錯誤の繰り返しだった。「いきなりできるわけじゃないんです。狙っているものがあって、苦し紛れにやってるうちにできてくる」。
鉄釉、赫釉(かくゆう)、中野飴釉、月白瓷、そして鈞窯(きんよう)と次々、新しい作風を展開する福島。次の一手は何か。
「そこなんですよ(笑)。粘土によって、まったく違うと最近よく思うんです。同じ小石原の粘土でも、粒子の細かさによってまったく仕上がりが異なる。昔、何気なく使っていた釉薬が、粘土の粒子が細かくなっただけで、ものすごく深みが出たりする」。そう言うと、福島は何かを企む少年のような目になった。
「どうしたら自分の作品らしくなるか、いつも考えています。自分にしかできないことをやっていきたい。若いときに、3S、シャープ、シンプル、スタイルが大事と聞きました。僕は、小石原焼はシャープさの中に強さを持っていると思っています。だから、ストロングを加えて4Sですね。力強く、高台が大きくガシッとした作品もできるようになりたいと思っています」
小石原焼はおまえに任せて安泰だな。代々のご先祖が挙(こぞ)ってそう言っているようだ。
福島 善三(ふくしま・ぜんぞう)
1959年福岡県生まれ。1999年日本陶芸展で大賞の桂宮賜杯受賞。2003年日本伝統工芸展で日本工芸会総裁賞受賞。2013年日本伝統工芸展にて高松宮記念賞受賞。2014年紫綬褒章受章。2017年重要無形文化財「小石原焼」保持者認定。
photographs Naruyasu Nabeshima
text Michiko Watanabe
お帳場通信 2017-18 冬号 掲載