人間国宝を訪ねて②
川北 良造 木竹工/竹工芸

人間国宝を訪ねて②川北 良造 木竹工/竹工芸のメインビジュアル

人間国宝とは、重要無形文化財保持者のこと

川北良造は木地師の家に生まれたが、一度も家業を継げとは言われなかった。小さな頃から、親の仕事場のそばで遊ぶのが常だった。冬、寒いときには、カンナくずの中に埋もれて寝てしまうこともあった。小学校4年生ぐらいになると、親がいないのを見はからって仕事場に入り、見よう見まねで挽いてみたりもした。すぐにカンナの刃先が食い込んで折れる。その刃をカンナくずの中に隠す。そんなイタズラを、父は咎めることはなかった。そのうち、コマを挽けるようになると、職人さんたちから、木には芯があってその芯を真ん中にしてコマをつくるとぶれないし、回転時間も長くなる、と教わる。遊びながら、自然と仕事に触れて成長していく。中学を卒業する頃には、だいたいのことができるようになる。

仕事場の台の上に木くずと道具が置いてある画像
仕事場の台の上には、木くずが山のよう。その合間に埋もれるように道具が散らばる。

川北の育った山中は、漆器の一大産地である。子供たちは、木地・塗師・上塗り・蒔絵など、暗黙のうちに家業を継ぐ。川北は母のすすめで、木地師の家にもかかわらず、蒔絵を習うことに。山中の漆器工補導所でスケッチから指導を受けた。2年目にふっと、父の仕事を継ぐのが本当ではないのか。父について仕事をしたいと思い、補導所を中退。まずは、木地師である川北家の本家へ、修業に出た。ところが、来る日も来る日も雑用ばかり。こんなの習いに来たんじゃない。3〜4年は不満でいっぱいだった。それがあるとき、雑用も将来役に立つと思い始める。どうすれば、職人さんたちに喜んでもらえるのか、どうすれば早くできるのか。そんなふうに気持ちを切り替えると、どんな仕事も早く確かにこなせると、重宝がられるようになった。結局、8年が過ぎていた。

職人さんたちは、いろいろな自慢話をする。「徳利袴(お銚子を入れるうつわ)を1日600個挽けたら一人前だ」という話を耳にして、良し、挑戦してみようと思い立つ。父からは「早く仕事をする方法を教えよう」と、目覚まし時計をプレゼントされる。「その秒針と競争しろ」と。600は難なくクリア。1カ月ほどの間に1,000までいった。天晴れな仕事ぶりだが、腕が動かなくなった。せいぜいが900までだなと思い知る。チャレンジはまだあった。山中は、千筋・平筋・籠目筋など、「筋物挽き」が得意な地。40歳のとき、どれだけ細い筋がつけられるかに挑み、1ミリに8本、線を挽いた。でも10本はどうしてもムリだった。「好奇心が強いんですね。人がやれないことをやってみたくなる(笑)」。

欅造嵌装鉢の画像
欅造嵌装鉢 直径12×高さ9.3cm

この頃から、父・川北浩一は山中では珍しく、作家活動にも意欲を燃やし、日展に何度も出品するようになっていた。ある日、金沢から、のちに「木工芸」で重要無形文化財保持者(人間国宝)となる氷見晃堂が訪ねてくる。そして、父にいうのである。「日展も良いが、日本伝統工芸展に出してみてはどうか」。職人の仕事は、問屋からの注文をいかに早く正確に仕上げるか、だ。自分の思いは決して入れてはいけない。一方、出展する作品は、職人仕事とは次元が違うもの。自分の思いが表現されなくてはならない。そのことを、何度も足を運び、教えてくれた。昭和35年(1960年)、第7回日本伝統工芸展に入選。2年後、良造も入選を果たす。「氷見先生のご指導に、感謝以外、ありません」。

作品を作っている様子の画像
一度挽き始めるとつい没頭してしまう。

川北の恩師といえば、まず父だろう。技術は父の指導による。褒めてくれたことは一度もなかった。いや、一度だけある。1日に椀を100個200個と挽くのだが、職人の気持ちとして、一番上に今日一番の出来のものを置いて仕事を終える。すると、父は通りがかりに重ねられた椀を一瞥(いちべつ)するも、一番上には目もくれず、真ん中あたりの椀を取り出し、床にパンと打ち付ける。川北は心穏やかではない。

どこが父の目には不良と映ったのか。拾い上げて矯(た)めつ眇(すが)めつする。父は何も言わない。そんなことが続いた。随分、あとになって、川北が何度か入選を果たした頃のこと。「わしはいくつか、おまえのつくった椀を壊した。おまえはそのとき、すぐそれを拾って一生懸命見て、考えていた。その姿勢が、職人として見所があると思った」といってくれたのである。親はちゃんと見ていた。なんと温かい。川北の訥々とした話を聞きながら、熱いものがこみ上げてきた。

大杉がある菅原神社と展覧大杉の剪定した枝から作った作品の画像
左/川北の案内で、山中の宝、樹齢2300年の大杉がある菅原神社へ。
右/左の天覧大杉の剪定した枝から作った作品。栢野2300年天覧大杉 片口 直径8×高さ16cm 三ツ組盃

二人目は、川北親子を作家へと導いてくれたばかりでなく、ずっと指導を仰いできた氷見晃堂。あるとき、桑の板材と図を渡され、この通りの天目台を5個挽いてほしいと依頼される。意気揚々とつくり上げ、持参すると「ここを紙一重削ってください」という注文。うわぁ、紙一重ってなんだ。氷見に聞くと「新聞紙一枚だよ」と。要望に添ったものを挽いて届けた半年後、作品ができたからと呼ばれて見てみると、5個すべてに透かし文様が入っていた。それを見た瞬間、川北はすべてを悟る。紙一重薄いことで、透かし文様の見え方がぐっと良くなるからだ。そして、「先生はやっぱりすごい」と大納得したのである。

工芸会の石川支部展に、神代ケヤキでつくった盛り鉢を出品したことがある。縁のつくりに特徴を持たせた。「自分の形をつくれないか」と考えた意欲作である。氷見の評価は、「あの縁がどうもなぁ」だった。そうか、まだまだだったか。半年ほど過ぎた頃、今度は氷見からひと言。「川北君、縁はあれで良かったな」。こんな一介の職人の仕事を、半年も考えていてくださったとは。心底ありがたかった。昭和50年(1975年)、親とも慕う氷見が逝去。当初は不安だった。「スランプもありましたが、先生のお言葉を思い浮かべつつ今日に至っています」。

田権六が監修した名書『時代椀大観』と桂神代華飾挽花入の画像
左/松田権六が監修した名書『時代椀大観』。画期的な本である。そのページを愛おしむように眺める。
右/桂神代華飾挽花入 直径9×高さ25cm

三人目は、漆聖とも称される松田権六。「スケールの大きさには驚くことばかりでした」。松田が材料としたのは、すべてヒノキ。それも木曽のヒノキに限られていた。ある日、松田のお伴で木曽・上松の貯木所で原木の品定めをさせていただいた。数日後、山中駅からヒノキが到着したから取りに来てほしいと連絡が入る。引き取りに行ってビックリ仰天。一抱えもあろうかという太さ5メートルもの原木が貨車に山盛り載せられていたのである。一人ではどうにもならず、結局、20人ぐらいでなんとか運び出した。なんとも豪快だ。

松田が編んだ『時代椀大観』というすごい書がある。日本全国に残る名椀を64点収録したものだが、これを見て気づいたことがあった。木はやきものや金属に比べ、保温性に優れている。なかでもヒノキは抜群の保温性を誇る。香りが良いこともあるが、湯船に使われるのはその保温力のせいである。ケヤキのように保温性が悪い木の場合は、細かい年輪のものを選び、漆を何度も塗り重ねることで、ヒノキに匹敵する保温力を持たせることができる。これはすべて、使う人の身になって用を果たすために考えられたこと。木のうつわは、そういう使命を持って生まれたうつわであること、そこに先人のすごさを感じた。そう話すと松田は、「そうですか、気づいてくれましたか」と、嬉しそうに頷いたという。

生まれたときから木に親しみ、木とともに生きてきた。人のために木を生かす仕事に、今日も静かな情熱を注ぎ続ける。

川北 良造(かわぎた・りょうぞう)

1934年石川県加賀市生まれ。父・浩一から山中漆器のろくろ挽物技術を修得。1962年第9回日本伝統工芸展に初出品。1994年「木工芸」で重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。1999年紫綬褒章受章、2004年旭日中綬章受章。自ら車を駆って、渓谷へ釣りに出かける。

photographs Ryo Shirai
text Michiko Watanabe
お帳場通信 2016-17 冬号 掲載