人間国宝を訪ねて④
奥山 峰石 金工/鍛金

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人間国宝とは、重要無形文化財保持者のこと

ん? 「雅」や「チューリップ2」という作品を見て不思議に思う。これは金属にアクリル絵具で絵を描いたもの? いや、そんなわけはない。では、どうやってつくられているのだろうか。

奥山峰石の作品にちりばめられた美しい花々や木々の枝ぶりを見て、頭の中は?で一杯になった。実はこれらの作品、「打込象嵌(うちこみぞうがん)」という手法でつくられたものだという。まず紙に描いた下絵を金属板に貼り付け、その文様を糸鋸で切り出していく。金属板は厚さ0.4ミリ、金と銅の合金である赤銅や、銀と銅と少量の金の合金の四分一などである。

糸鋸で切り出すといっても、細い枝が重なりあっていたり、繊細な花びらであったり、幅1ミリもないような世界での慎重な作業となる。この切り出しには10日近くかかることもあるという。切り出したものを銀製の花器の表面に接合し、上から叩いて、少しずつ少しずつ打ち込んでいく。これが奥山が得意とする技法のひとつ、「打込象嵌」である。

打込象嵌花器「チューリップ2」の画像
打込象嵌花器「チューリップ2」

奥山は山形の田舎の村で、6人姉弟の4番目として生まれた。姉の影響で、女の子のする遊びは何でもできたという。父が急逝したこともあって、生活は常に逼迫していた。中学を出る頃、親戚から東京で住み込みの仕事があると勧められ、夜学にも行かせてもらえるという触れ込みだったので喜んで上京。もうひとつ、東京に行けば、芸能界にスカウトしてもらえるのではないかという淡い望みもあってのことだった。

勤め先は、遠縁の親戚が勤めていた銀器製作所である。ところが、夜学どころか、毎晩9時まで仕事の日々。しかも、休みは月2回ほど。結局、高校は行かずじまいだった。「田舎にも帰れない。東京に知り合いはいない。ここで働くしかなかった」。もうひとつの、銀幕への憧れは、小学校の校庭で見た巡回映画に始まる。

『鞍馬天狗』の嵐 寛寿郎、チャンバラのうまい中村錦之助などなど。でも、目指したのは高田 浩吉や美空ひばり、鶴田浩二といった、歌って演じることのできるスターだった。東京に出れば、スカウトがうじゃうじゃいて、自分もいつかは声をかけられるに違いないと夢見ていたのだ。だから、外を歩くとき、いつスカウトされてもいいように、下を向かず、姿勢よく町を闊歩したそうだ。80歳を過ぎた今も姿勢がいいと言われるのは、その頃の名残かもしれないと笑う。

左はバーナーで熱しては水をかけ、叩いてはまた熱している画像。中央はおびただしい道具の数々、右は打込象嵌の画像
左/バーナーで熱しては水をかけ、叩いてはまた熱する。
中/おびただしい道具の数々。
右/打込象嵌。赤銅の「木」を銀のボディに接合していく。

1年もしないうちに、この銀器製作所の仕事を紹介してくれた遠縁の人が独立することになり、奥山もついていくことに。この『笠原銀器製作所』で、本格的な鍛金の修行が始まる。「15歳から20歳ぐらいまで、必死になって仕事を覚えました」。当時、銀器といえば、進駐軍(GHQ)が母国に帰る際にみやげとした銀食器が多かった。コーヒーポットやティーポット、シュガーポット、ミルクポット、トングトレイの5点セットを数多くつくっていた。また、国民体育大会の賜杯や、競馬や競輪の優勝カップなどが主な仕事だった。

20歳になったある日、たまたま、日めくりカレンダーにあった「一代一職」という言葉に巡り合う。「この言葉を見たときに、この仕事、好きで始めたわけじゃなかったけど、私の運命かもと思いました。与えられた仕事こそが、やるべき仕事。一生やっていかなきゃいけないんだなって」。

朧銀菊文鉢(おぼろぎんきくもんはち)の画像
朧銀菊文鉢(おぼろぎんきくもんはち)

職人として生きる腹を決めたのである。以後、この言葉は奥山の座右の銘となる。20歳を超えると、もう芸能界でもないだろうと、ますます仕事に打ち込む。25歳のときに独立したいと親方に伝えると、ひどく叱られた。忙しかったのである。でも、独立準備は着々と進めていた。

そのうち、どこかから独立するという話を聞きつけた業者から、指輪300本という依頼がくる。通常の仕事もしながら、3カ月、ろくに寝ないで頑張った。近所の指輪屋の小僧2人にも手伝ってもらった。こうして何とか元手をつくったうえで、翌年1月、弟子2人を抱えて独立を果たす。

独立して3カ月くらいは仕事がなかったが、それ以降、順調に仕事が入ってきた。ゴルフ大会のカップを、多いときには大小取り混ぜて月に300本もつくったという。寝る間を惜しんで働いた。40歳を前にした頃から、職人仕事の合間を縫って作品をつくり始める。40歳で初めて、東京美術銀器工業協同組合のコンクールに酒器セットを出品すると、見事入賞。その作品を見た金工作家の田中光輝から、伝統工芸展に出品してみてはと勧められる。それから1年間、毎週土曜の午後に工房に通う。作家としての遅いスタートだった。

左は作品は一枚の金属板を叩いてるところで右は入選した赤銅鉢の画像
左/作品は一枚の金属板を叩くところから始まる。
右/5回目にしてやっと入選したのがこの「赤銅鉢」。

昭和53年(1978年)、伝統工芸武蔵野展に入選。以後、入選は続くが、春の伝統工芸日本金工展や伝統工芸新作展などに入選できても、登竜門ともいうべき秋の日本伝統工芸展には4回連続落選。「悩みました。自分には素質がない。何度もやめようと思いました」。5回目にようやく入選。入選作の「赤銅鉢」は今も手元においてある。それからは作家としても順風満帆。平成7年(1995年)には重要無形文化財「鍛金」保持者(人間国宝)に認定される。

奥山の工房は、驚くほど普通の部屋だった。コンパクトに効率よくつくられていてムダがない。高温での作業になる、バーナーを使う場所だけは周囲を耐火レンガで覆っていかめしいが、地金を熱したあとに急冷する水屋は、引き戸を開けた中にある。水が飛ばないよう少し深くしてあるが、普段は戸を閉めているので物入れにしか見えない。座ったまま引き戸を開けて、頭を突っ込むような形で地金に水をかける。都会型の工房というか、長い職人生活から生まれた知恵の結集というのか。ここから、豊かな自然の営みを感じる作品が生まれていることに感動を覚える。

ちょうど、奥山が得意とするもうひとつの技法である「切嵌象嵌(きりばめぞうがん)」の作業中だった。切嵌象嵌は椿や牡丹など、大きな模様に適しているという。ボディに穴を空け、そこに別の金属をはめ込む技法である。まず、文様を糸鋸で切り抜き、それをボディの表面において、その形に沿ってボディをくり抜く。そこに切り抜いた文様をぴたっとはめ込み、接合して仕上げるのである。こうすると、内側にも同じ文様が現れる。

赤銅五輪文鉢の画像
赤銅五輪文鉢

奥山が自然に目を向けるようになったのは、陶芸家・板谷波山の影響が大きい。板谷の、花がモチーフの作品ばかりを集めた個展を見て、「陶芸で花が表現できるなら、金属でも花がつくれるのではないか」と思ったのが端緒である。さらに、花ができるなら木もできるはずと、視界が広がっていった。

「自然のものならモチーフに困らないだろうと思っていたのですが、最近ちょっとあきてきちゃって困っています(笑)」。奥山が一番苦手なのはデザインだという。「アイデアが浮かべば、80%できたのと同じ。あとは、職人ですからつくるだけです」。展覧会を参考にしたり、いろんな花のいろんな表情を写真に収めて、それをいくつか組み合わせたりして、自分なりの形をつくっている。

84歳となった今でも、朝9時から夕方6時まで作業場で仕事に打ち込む。「でも、昔のように集中が続きませんね。はかどりが悪いです」とはいうものの、今なお、年に2作か3作は作品をつくり続けている。まだまだ金属にできることがあるのではないか、という探究心は衰えを知らない。

人工物そのものの金属で、人の手の及ばぬ豊かな自然を描き出す。これまで誰も成し得なかった作品は、私たちを見たこともない創造の森へと誘ってくれる。

奥山 峰石(おくやま・ほうせき)

1937年山形県生まれ。15歳で鍛金の道へ。笠原宗峰に弟子入りし、田中光輝に師事。数々の受賞を経て、1995年重要無形文化財「鍛金」保持者(人間国宝)認定。2007年旭日小綬章受章。2018年東京都名誉都民顕彰。名誉都民に。東京都北区名誉区民、山形県新庄市名誉市民でもある。

photographs Naruyasu Nabeshima
text Michiko Watanabe
お帳場通信 2021 春夏号 掲載