人間国宝を訪ねて⑧
村山 明 木竹工/木工芸

人間国宝を訪ねて8 村山 明 木竹工/木工芸のメインビジュアル

人間国宝とは、重要無形文化財保持者のこと

村山明の作品はフックだらけだ。

一見、とてもシンプルな作品に見えるのだが、よーく見ると思いもかけない仕掛けが浮かび上がり、次第に、単純な構造ではないとわかってくる。具象の中の抽象というのか、抽象の中の具象というのか。平らで直線的な面かと思いきや、柔らかなふくらみが隠されていたり、机の脚の反りが妙になまめかしかったり、ふくらみとふくらみが重なり合って動きとリズムをつくっていたり……。

そんな、思わずナゾ解きしたくなるような、仕掛けに満ちた作品を見ていると、いつの間にか、温もりが宿る村山ワールドにぐいっと引き込まれてしまう。もちろん、中には剛速球のストレートな表現もあって、それはそれでズシンと重みを持って伝わってくるのだが。

カンナの画像
左/カンナの大きさは多様。
右/カンナで削る作業は根気がいる。

村山は理論派で建築的な構築をする作家である。また、作品に一流のユーモアや驚きをこっそり隠しておく名人でもある。そして、いたずらっ子のように、わかるかな、わからないかな、なんて遠くから密かに見ている感じ。使い手あるいは鑑賞者は、手で触ってみて、あるいは角度を変えて見ることで、その仕掛けを発見し、体感して納得するのである。そのうち、気付く。村山は軽口を叩きながら、ものすごいことをやってのける、すごい人だったのだ、と。

たとえばこの日、ちょうど補修依頼が来ていた靴べら。京都迎賓館の玄関のものだそうで、椅子に座って靴を履くとき用のものなのだが、右手で持つのと左手で持つのでは感触が違うのだ。「それは右利き用」と、村山。右手で持ったほうがはるかに握りやすい。柄の左右で削り方を変えているのである。

 「シンプルに見せようと思って、複雑なことをいっぱい組み合わせる。それがうまく組み合わさることで、シンプルに見えてくる。シンプルに見えてほしい。でも、余分な仕事が多すぎると、煩わしく見えてしまう。そうはなってほしくないんです」

柿拭漆小箱の画像
左・右/柿拭漆小箱 幅22.8×奥行10.3×高さ6cm

ひと口に木工芸といっても幅広い。指物、刳物(くりもの)、彫物、挽物、曲物などあるが、村山の守備範囲は刳物だ。ノミやカンナを使い、木をくり抜き、形をつくり出していくのだが、木工の中でも、もっとも原始的な技のひとつとか。自由に形をつくれるが、手作業で、ひたすら木をくり抜いていくのである。

そして、「拭き漆」で仕上げる。拭き漆とは、木地に生漆(きうるし)を塗っては布で拭き取る作業を繰り返すことで木目を生かし、美しい艶を生む技法だ。

「拭き漆は、日本に元々あった技法ではなかったと思います。朝鮮の米櫃(こめびつ)なんかに使われていたのが原形かと。日本の場合は、塗り物か、逆に白木の栃(とち)のお椀のように漆を塗っていないものしかなかった」

拭き漆が工芸界に普及したのは、近年のこと。その先鞭をつけたのが、後に、村山が師と仰ぐ黒田辰秋だった。戦前はよい研磨剤がなかったため、カンナで削り、砥石で滑らかにしていた。「辰秋の初期の作品がすごく粗いのは、そのためです」。

紙ヤスリというか現在のようなサンドペーパーはなかったから、和紙にニカワを塗り、金剛砂を撒いて、表面をざらざらさせた‟サンドペーパーもどき”を用いていた。耐水性ではないため、水に浸すとパラッと剥がれる。だから、水を使わず研いでいた。戦後、接着剤や研磨剤の進歩によって耐水ペーパーが完成すると、研ぎの精度が向上し、艶上がりがよくなってきた。

「だから、辰秋らしい、しっとりした拭き漆ができるようになったんです」

欅拭漆重箱の画像
欅拭漆重箱 幅35.5×奥行24.5×高さ22.5cm
重箱の画像
上/重箱の中は金箔をはった上から留め漆をかけている(白檀塗り)。

拭き漆の工程はこうだ。完成した木地を空研ぎペーパーで研ぎ、割桧(わりひのき)のヘラで漆を塗り込む。それを耐水ペーパーで研ぐ。ペーパーの番手を細かくしていきながら、塗っては研ぐ、を繰り返す。研ぐということは、傷をつけ、そこに漆が入り込むことだ。

「水(耐水)ペーパーで水をつけながら研ぐということは、木の細胞をふやかして無数の傷をつけ、漆をしみ込ませること。水を使って表面を荒らし、漆をすり込みやすくするわけです。表面の粒子を細かくすればするほど、透明感が増すんですね。木が柔らかいと光を反射しないので、透明感が出てこない。だから、漆を吸い込ませて硬くするんです」

村山と辰秋の出会いは偶然に近いものだった。大学の新入生歓迎会で、OBである辰秋の息子・乾吉と知己となる。なにしろ、高校時代は洋画家志望だった村山は、このとき、辰秋のことはまったく知らなかったという。半年後、乾吉に頼まれて、辰秋のために棗を彫る。三回生のときに、またもや頼まれ仕事で初めて家を訪れる。四回生のときは、新宮殿の把手(はしゅ)台座の螺鈿細工を手伝うことに。このときは、家に寝泊まりしての作業になった。

「先生お一人で、亀甲つなぎのためのメキシコ貝をキコキコ切っていた」

辰秋は、民藝運動の初期に参加していたが、次第に考え方が合わなくなり、離脱。朝鮮の「無作為の美」を範とし、木工芸に新機軸を打ち立てた人物である。村山が学んだのは、技術云々よりも、作る作法というのか、仕事への向き合い方、木へのオマージュ、愚直なまでの真摯な姿勢だったのだろう。

村山が作業場にアグラをかいて座る。

「椅子に座ってやる人もいるけど、座り仕事のほうが僕はやりやすい。慣れやね」

制作中の画像
左/カンナを替えながら、ひたすら削る。
右/制作中(取材当時)の水盤。構造は複雑。

50センチ四方ぐらいの重そうな木の板を、台とおなかで挟んで削り始めた。シュッ、シュッ、シュッ。カンナをかける音が響く。いろいろな大きさを使い分けながら、削っては木の表面を手で触る。撫でるといったほうがいいかもしれない。少し削ると、また撫でる。設計図はつくらない。目で見て、手で触ったほうが正しい。「手と目が大事」。設計図があると、見たくなる。そのうち、設計図がないとできなくなる、という。平面だけ描いて、削り始める。もちろん、頭の中には完成予想図が明確にあるはずだ。

「よく、『木の声を聞きながら、自分の中で対話を繰り返す』なんて書かれることがあるんです。でも、そんな声、いっぺんも聞いたことない(笑)。木はいろいろ言ってるのかな。『え、切られるの?』とか『机になりたい』とか(笑)。結局、人間が勝手に思ってるだけの話や。人間の意思の反映だ。木と話はできないもの。具象的にわかり合えて、意思疎通ができるのは人間同士しかないでしょ。この頃、書かれるたびに、そう思うようになってきた。ただ、板を見ていると、すごいきれいだなと思うことはある。よくここまで生きてきたな、と。板になってかわいそう、なんて思うことはあるよね」

村山 明さんの画像と神代欅卓の画像
左/取材中の村山 明さん。
右/神代欅卓 幅65×奥行24.5×高さ22.5cm

そう言いながら、木を刳り続ける。手で木をやさしく撫でて、どのくらいの状況かを探る姿は、やっぱり、木と意思疎通がはかられているように見える。

「最近は、手づくりといえばいいものだという風潮だけど、何でも手づくりすればいいというわけではない。きれいな板に手をかけて、元の板より悪くなったらモノをつくる価値はない。僕らも言われたもんです。『作るんなら、‟板”さんが成仏できるように』と」

木は何十年も何百年も生きてきた。板になっても、なお生き続けている。木には木の意志が確かにある。ならないものはならない。ムリして人の思い通りにするより、素直にできたほうがいい。

作品は、きっかけさえあれば、考えられる。でも、何がきっかけになるかわからない。

「石でも葉っぱでも、葉っぱが動いている様子でも、『コレだ』というものが見つかれば、作品はできる。木という動いていないもので、どう動いているように見せるのか、あるいは流れているように見せるにはどうするのか。昔、やっていたことをもう一度やってみようと思ったりもすることもある。そうやって、いつもぼーっと考えている。起きてるけど、ずっと夢見てるんです(笑)」

右脳と左脳のバランスがよい人なのだろう。ちょっぴり皮肉とユーモアをまぶしながら、まだまだ、おもしろい作品を生み出しそうだ。

村山 明(むらやま・あきら)
1944年兵庫県尼崎市生まれ。京都市立美術大学彫刻科卒業。黒田辰秋を師と仰ぐ。1988年日本橋三越本店にて初個展。2003年重要無形文化財(木工芸)保持者に認定。2005年紫綬褒章受章。2014年旭日小綬章受章。

photographs Naruyasu Nabeshima
text Michiko Watanabe
お帳場通信 2017 夏号 掲載