人間国宝を訪ねて⑨
伊勢﨑 淳 陶芸/備前焼

人間国宝を訪ねて9 伊勢﨑 淳 陶芸/備前焼のメインビジュアル

人間国宝とは、重要無形文化財保持者のこと

ぐるんと大きくねじれた、力強いフォルムの作品「魑魅魍魎(ちみもうりょう)」。魑魅魍魎とは水や森に棲む妖怪だと、伊勢﨑は言う。「神とも考えられる」とも。人型をしているだけに、今にも動き出しそうで少々こわくもある。

「東日本大震災のあとに、2つ作品をつくったんです」。ひとつがこの魑魅魍魎。もうひとつは、倒れた木から芽が吹いて再生するという陶片のインスタレーション「倒木再生」。「東北の再生」を念じての作品だ。どちらも人の手でつくり出したとは思えない、土が自ら意志を持ってうねり、うごめき、形になったようで、ものすごいエネルギーを放っている。

工房の軒下に置かれた作品「風雪」の画像
工房の軒下に置かれた作品「風雪」。

備前焼といえば、侘びた茶陶を想起する人が多いだろう。伊勢﨑ももちろん、茶盌を数多く制作しているが、同時に、ほとばしる創作意欲にまかせ、オブジェの制作に余念がない。「50歳近くになって、何とかやっていけそうと思ったとき、これからは自分なりの作品をつくろうと」。そして、次第にオブジェ制作が中心になった頃に受けた、重要無形文化財認定だった。

認定を受ける際に「今の僕の仕事はオブジェばかりですが、それでもいいでしょうか」と思わず聞いたという。年齢を重ねるに従って、その創作意欲はますます熱を帯びる。

伊勢﨑は、大学を出てから1年間、高校教師を務めた。幼い頃から兄・満とともに、備前焼の名匠、父・陽山から陶芸を学んではいたが、すでに兄が後継となるべく歩んでいたため、教師はきちんと身を立てている姿を父に見せ、安心させるためでもあった。

1年を過ぎた頃、父が急逝。もう教師を続けなくてもよくなった伊勢﨑は、教師生活の蓄えで土地を求め、借金をして工房を構えた。これで思う存分、作陶できる。ただ当時は、学生時代のようなオブジェ制作は、生活のために封印せざるを得なかったのだが。

左は工房で制作に没頭する様子の画像と右は花器「角花生」の画像
左/工房で制作に没頭する様子。
右/花器「角花生」幅18.5×奥行23×高さ53cm

話は前後するが、父の友人が酪農をするために裏山(姑耶山・こやさん)を開墾していたところ、古い窯跡が出てきた。室町中期と思われるその窯を、父、兄とともに復元する。だが、これから焼こうというときに父は他界。半地下式の穴窯での初窯は、兄弟で成功させた。以来、その穴窯を改装しつつ現在も使っている。

備前焼の歴史は約1000年と古く、鎌倉時代中期には備前焼の体を成す赤褐色のやきものがつくられるようになる。鎌倉から桃山にかけては、壷、すり鉢、甕(かめ)が大量につくられた。「備前のすり鉢投げても割れぬ、といってね、丈夫だったんです」。また、甕は水もれがなく、水が腐らないと重宝された。

桃山時代、茶道が盛んになってくると、茶人たちの美意識が、侘び寂びを醸す独創的な造形を生み出した。その中核をなすのが備前焼だった。

「穴窯焼成で数々の名品が焼かれたけれど、江戸末期には、均質に大量に焼ける登り窯にとって代わられるんです」。当然ながら、登り窯は穴窯とは異なる焼き上がりになる。そうして、いつの間にか、穴窯は姿を消す。

左/「窯変花生」の画像と右は息子・晃一朗さんやお弟子さんと制作に励む工房の画像
左/「窯変花生」径16.5×高さ25cm
右/息子・晃一朗さんやお弟子さんと制作に励む工房。

備前焼を好む人は大概が古備前のファン。

穴窯焼成の伊勢﨑の作品はそんなファン(財界のトップたち)の目に留まり、東京で個展を開いた際には、力強い応援をしてくれた。ただ、伊勢﨑がそれに甘んじることはなかった。古備前的な作風のよさはもちろんあるが、これからの新しい時代の作家として自分の表現を見つけなくては。強くそう思っていた。

創造性を発揮して、新しい造形を生み出す。それこそが伝統をつなぐことであると確信しているからだ。「といっても難しい。とくに、お茶の場合は機能があるからね」。でも、その制約の中で、自分なりの表現をすることを自らに課してきた。さらに、イサム・ノグチや池田満寿夫をはじめとする芸術家や評論家らとの親交が、新たな表現への鼓舞となった。

「神々の器」の画像
「神々の器」幅50.5×奥行50.5×高さ15cm

伊勢﨑の案内で、穴窯を見学する。ゆるやかな斜面に、大中小と3つの窯が並ぶ。一番大きい窯は幅1m70~80cm、長さが15m。「隙間があると、そこにどんどん火が回るから、大小取り混ぜて、500~1000点、全体にしっかり詰めて、バランスよく火が行くようにする」。年2回窯に火を入れるのだが、作品の大きさや数によって3つの窯のうち、どれかひとつを使うそうだ。

備前焼は釉薬を使わず、紋様を描くこともしない。粘土をこねて形をつくり、少しずつ温度を上げて2週間にも及ぶ焼成で焼き締める。その長い時間の中で起こる窯変こそが、備前焼の命だ。「といっても、なりゆきまかせではなく、窯の中の炎の通り道や灰の降りかかり方を計算した上でのこと。ただ、そんな計算なんて吹っ飛ぶ、人智を超えた作品ができることもあるんです」。

備前焼の景色となるのは、松割木の灰がかかって溶けて黄色っぽい色になる「胡麻(ごま)」、松割木の灰がかかって、そのガスが還元して黒く焦げる窯変の一種「桟切(さんぎり)」、もともとは窯まで運ぶ際、割れないようにクッションとして使用していた藁が一緒に蒸し焼きされてできた赤い色の「火襷(ひだすき)」。この3通りが基本だという。「800年間、無釉の焼き締めを追求してきたから、無数の細かい技法が生まれていて、表現の領域を広げてきてるんです」。

奥の奥まで続く穴窯を眺めながら、長い長い備前焼の歴史に思いを馳せる。

穴窯の画像とそれを覗いている伊勢﨑さんの画像
左/穴窯をのぞく。
右/一番大きな穴窯の前に座る。

「備前の本質は、土、火、水、風といった自然の要素の中にある。つくり手は、この4つの要素と同化するような姿勢でものづくりをするわけです」。土と向き合い、土の声を聞き、そのよさを生かそうと努力する。土を焼き締める。松割木で温度を上げる。火の流れをつくるために風を入れて窯変を生む。水の影響で色が変わる。

そんなふうに、作品の中に制作する場の風土が、また、つくり手の感性、美意識が入ってくる。「やきものは、いかに人が自然と関われるかという仕事なんです」。

3・11の際につくった2つの作品も、自然と向き合い、自然と関わった中から生まれたものだ。「日本の工芸の根底には、常に自然との共生の精神が流れている。だから、いま、世界から注目されているんです」。

左は作品「魑魅魍魎」の画像と右は自宅にてインタビューを受ける伊勢﨑さんの画像
左/作品「魑魅魍魎」も置かれていた。
右/自宅にてインタビューを受ける伊勢﨑淳さん。

自分と向き合って生まれた作品もある。「完全黒体」。まるで手でちぎったような幅広い縁の中心に漆黒の真円が、黒い太陽のように輝く。45、46歳のとき、網膜剥離を患い、両目を塞がれた3カ月の間にイメージしたものを具現化したものだ。

黒い色を出すのに苦労した。文献を調べ、備前にも江戸時代には黒があったことを探し当てた。大きな甕の水漏れを防ぐために使われた「塗り土」という技法だった。戦後失われていた技法だが、試行錯誤を繰り返し、安定して黒を出すことに成功したのだという。以来、この漆黒は伊勢﨑の持ち味のひとつになった。

常に備前焼の原点に立ち戻りながら、これまでになかった新しい世界を切り拓く。伊勢﨑は、伝統を重んじながら革新を続ける、現代備前焼の旗手だ。

「まだまだ、つくりたいものがある」84歳(取材当時)。人生100年時代。守りに転ずることなく、これからも攻め続けていく。

伊勢﨑 淳(いせざき・じゅん)
1936年岡山県現・備前市生まれ。岡山大学卒業後、教師を経て作陶の道へ。1981年金重陶陽賞はじめ、受賞多数。2001年日本橋三越本店にて伊勢﨑淳作陶45周年展。2004年重要無形文化財「備前焼」保持者認定。2008年日本工芸会常任理事に。海外での個展も多々。

photographs Ryo Shirai
text Michiko Watanabe
お帳場通信 2020 春夏号 掲載