人間国宝を訪ねて⑪ 勝城 蒼鳳 木竹工/竹工芸

人間国宝を訪ねて11 勝城 蒼鳳 木竹工/竹工芸のメインビジュアル

人間国宝とは、重要無形文化財保持者のこと

なんの目印もない、表札もない、畑の中の一軒家。栃木県大田原市郊外。ここが、勝城蒼鳳の生活の場であり、創作の場であり、農作業の場である。

半農半工。それが今も続く勝城の生き方だ。

昭和24年、中学を出たあと、父に連れられ、トランクを背負って6里の道を半日かけて、歩いて竹細工の親方のもとへ。父もかご職人だったが、より厳しい道をと、住み込み修業に出されたのである。つくるのは、農作業用のかご。あくまで実用品で、草刈りかごや背負いかごが主だった。

当時は、農家とかごづくりは兼業で、春の彼岸から秋の彼岸までは農作業、それ以降がかごづくり、というのが一般的だった。親方の指導はおそろしく厳しく、間違おうものなら、ナタが飛んできた。

学ぶこと6年。「同じ種類の竹でも、生えている場所、土質によって性質が変わる。だから、つくりたいもの、つくりたい部分によって、どこで採るかを変えるんです。このとき会得した竹の見方、扱い方は、今も役に立っています」。現在も、近隣に生えている竹を用い、創作している。

平割捻文摺漆花籃「駒止の瀧」と作品を編んでいる様子の画像
左/平割捻文摺漆花籃「駒止の瀧」
右/編み始めると集中して無口に。

実家に戻った勝城は、父に借金をして家庭内独立。4年過ぎた頃に縁あって養子に。現在の場所で、農業と竹細工の生活が始まる。ところが、伝統の農作業用のかごもプラスチック製品に押され、転業して通い始めた、キャベツや白菜など野菜運搬用のかごづくりの仕事も、段ボールの普及によって、3年でなくなってしまう。

何たる不運か。しかし、禍福はあざなえる縄の如し。ここで運命的な出会いが訪れる。竹割りの技術が生かせるということで、八木澤竹工房へ。主宰の八木澤啓造は、大田原で竹工芸の創作と後進の育成に力を注いでいる人物だった。当時、工房では、竹のブローチの制作なども行っていたが、勝城はここで創作の喜びに目覚める。

「農作業用のかごは形も大きさも決まっていて、いかに正確に丈夫につくるか、が重要でしたが、八木澤先生のところでは自由度が高かった。何の縛りもないんです。自分の気づかなかった竹の世界があることにワクワクしました。もう夢中で、作品をつくりました。そのうち、作品をつくって発信していくことがおもしろくなってきたんです」

作品を編んでいる様子の画像
左/編みかけのかごを編み続ける。
右/かごは水に浸けておいたもの。

興味が出てきて、創作のための勉強にと、いろんな展覧会を見るようになった(これは現在も続く)。非凡な才能は、すぐに開花。作品を県の芸術祭に出してみたら見事大賞を射止め、東京都美術館に展示される。

「もう、自由につくれることが楽しくてね。ま、食い扶持として生活の役に立つかっていうと大変なんだけど、創作は自分の性には合っていたんだと思う」

この頃、かごを編むのに最適なのは風呂場だった。「ぬるま湯が竹にはちょうどいいんです」。裸で湯船の縁に座って、濡らしながら編んだ、とか。

かごづくりがヒマな時期は、いろんなところで働いたが、横浜の動物検疫所で働いたこともあった。ちょうど、東京タワーを建てている頃で、遠くに見えるタワーで働く鳶職の人たちの給金が1日3,000円、自分は1日400円しかもらえなかったとか、勝城の昔話は苦労話にもかかわらず、のどかで微笑ましく、ずっと聞いていたくなる。その一つひとつが、今も勝城の宝物だ。

さて、八木澤竹工房に勤めはじめて2年後、八木澤が海外で暮らすことになり、八木澤竹工房は閉店となる。その際、啓造の雅号である蒼玕(そうかん)から一文字をとり、蒼鳳という雅号をもらい、竹工芸の道に進むことを決意して独立を果たす。

工房では運転ができたところから、八木澤の運転手としてあちこちに同行したことも後々、役に立つことになる。いずれにしても、八木澤と過ごした2年間は、勝城の人生を変える大きなできごととなった。

柾割曲線摺漆花籃「田面光風」の画像
柾割曲線摺漆花籃「田面光風」

勝城がひと抱えもあるような大きなかごを編み始めた。濡れた竹の一本一本が生きもののようになまめかしくしなり、うねる。

竹は機械ではなく、一本ずつ小刀で削ったもの。だから微妙に不揃い。それが味になる。「竹工芸は、底を編んだ竹を縁取りするまでの線や空間の動きの中で、どのように表現するかなんです」。

創作のモチーフは毎日のように目にする自然の情景だ。自然から受けた感銘は書き留めずに、俳句のような印象的な言葉で頭の中にインプットする。それを反芻しながら、イメージを膨らませていく。そのイメージは、かわいらしい表紙のスケッチブックに鉛筆でさくっと描かれるだけ。すべては頭の中にある。

たとえば「駒止の瀧」という作品。那須の御用邸の一部が一般公開され、初めて見た滝の荘厳さに心を打たれ、モチーフに選んだ。季節が変われば景色も異なる。何度も見に行って頭に焼きつけた。

熱で捻った竹を並べ、滝の流れ落ちるさまを表現。素焼きの陶器に漆を塗った「おとし」(円筒形の器)を外すと、表と同様に、捻った竹を配した裏面が透けて見えるのだが、その重なりようが水勢の強い滝を思わせる。見る角度を少しずつ変えていくと、すごい、ほんとうに水が流れているよう。

たとえば「田面光風」。田植え前の水をはった田んぼに風が吹く。水面がなびく。その表情を写した情緒に富んだ作品だ。これもまた、ほんとうに初夏の風が吹いているようだ。

篠平伸摺漆花籃「耕心」の画像
左/篠平伸摺漆花籃「耕心」
右/彫ってから漆をかけた「蒼鳳」の銘。

「自然から受けた感動をモチーフにしてイメージを育て、竹工芸で表現することを考える。そして、イメージしたものに細かいところまで近づけるために、技術を考える。表現に必要な技法を編み出した作品も多いのです」

八木澤竹工房から独立後、作品で行き詰まったときに助けてくれた人物がいた。斎藤文石(さいとう・ぶんせき)。日本を代表する竹工芸家・飯塚琅玕斎(いいづか・ろうかんさい)の高弟だ。県の竹工芸指導員でもあったため、「すべてを惜しみなく教えてくれる人でした。この先、どうしたらまとまるか困ったとき、電話で教えてくれたこともあったほど」。

勝城の創作意欲はとどまるところを知らず、昭和43年、第15回日本伝統工芸展に出品。以来、今日まで50年近く出品し続けている。しかも、毎回、表現技法をがらりと変えているという。

「作品は発表した時点から『古作』と思っています。だから、毎日が、新しい表現方法を生み出すための自分との戦い。一日一日が短く感じます」

出展することで、いろんなアドバイスや批判を受ける。それがありがたいと勝城はいう。いってもらえなくなったら、おしまいだ、と。

現在も月に2回、公民館で開かれる市民学校で、一般の人たちにかごづくりを指導しているが、その生徒さんたちからも、いろんなことを指摘してもらう。「感覚だけでいってくれるのは、ありがたいです。なるほどと思うことばかり」。どんなに偉くなっても、この姿勢が変わることはない。

また、「理論より実践を」という、修業先の親方の言葉も忘れたことがない。教わった厳しい指導を守り、自分なりに咀嚼して創作の心とし、活動の原点としてきた。そして、今がある。

「耕心」の中を映した画像
左/「耕心」の中はこんなふう。
中/よく見ると、細かい細工もある。
右/手の表情も豊かに話す勝城蒼鳳さん。

齢80を超えてもなお、農業は続けている。ジャガイモ、ネギ、ナス……。畑を耕し、田んぼを起こす。両足はしっかりと大地を踏みしめながらの創作活動。半農半工だからこそ、描き出せる作品群。土の匂いや季節の移ろい。自然のリズムがあふれ出るような作品をこれからもつくり続けたいと願う。

現在の工房は、かつて住んでいた家。居間だったであろう部屋でかごを編む。勝城の中では、生活と創作は不可分なのである。

勝城は竹工芸を「竹耕藝」とも表す。なるほど。なんとうまい表現か。勝城の人生そのもののようである。

「創作は農作物を育てるのと同じ。先を見通して、今、どんなふうにすればいいかを見極める。そのスタイルが自分の性に合っているんだと思います。新品種を生むのと同じように、竹工芸の創作も新作を生む楽しみがある。それが生き甲斐になっています」

豊かな自然の中で、ごくあたりまえの生活をしながら、気負うことなく作品をつくる。その姿勢の純粋さに圧倒される。大地から吸い取った生命力が作品にこめられ、四方八方にほとばしり出ているようだ。

「勝城だから、この表現ができるといわれるような、個性的で人間味のある作品を生みたい」。モチーフとなる自然は無尽蔵。まだまだ、新しい作品が現れそうである。

勝城 蒼鳳(かつしろ・そうほう)
1934年栃木県那須郡(現・那須塩原市)に生まれる。1965年八木澤竹工房に入り、約2年間師事。創作に目覚め、竹細工から竹工芸の道に転向。八木澤啓造氏より蒼鳳の雅号を許される。1998年紫綬褒章受章。2005年に重要無形文化財「竹工芸」保持者(人間国宝)の認定を受ける。

photographs Ryo Shirai
text Michiko Watanabe
お帳場通信 2016 夏号 掲載