人間国宝を訪ねて⑫
増村 紀一郎 漆芸/髹漆

人間国宝とは、重要無形文化財保持者のこと
増村紀一郎は重要無形文化財「髹漆(きゅうしつ)」保持者である。「髹漆」とは難しい言葉だが、「髹」のもともとの意味は「刷毛で塗る」こと。「髹漆」は、蒔絵などの加飾を除いた、漆塗りを主とする漆工技法のことである。言葉の示す範囲は実に幅広い。増村は、乾漆、縄胎(じょうたい)、漆皮と技法のバラエティーに富むのが特徴だ。
後に「髹漆」の人間国宝となる父・益城は、戦後、漆のテーブルをつくって食い扶持を得ながら、毎年7~9月は日展に出す作品をつくっていた。だが日展内で、松田権六が山崎覚太郞と袂を分かつと、松田のグループに呼ばれ、日展を離れる。
増村が中学生の頃の話だ。家には、いつも芸術家たちが遊びに来ていた。住まいのあった東京の西武池袋線椎名町駅近くには、「パルテノン」と呼ばれるアトリエ付きの住宅が20軒ほど立ち並び、画家や彫刻家たちが多く暮らしていた。近所には熊谷守一の家もあった。
風呂屋で会うパルテノンの住人たちは実に楽しそうで、子供心にも、ああいう自由な生き方っていいなと思うようになる。彼らには藝大出身者が多かったから、自然と藝大進学を目指すようになり、高校は近所の歩いて行ける普通高校を選んだ。

右/漆皮の作品を制作中(取材当時)。
近所の高校だったから、パルテノンの住人の子供たちも大勢通っていた。入学するや柔道部に入り、美術部にも顔を出した。柔道部に入ったのは、パルテノンの住人たちの助言があったからだ。「この業界、40、50は洟垂れ(はなたれ)小僧って言うだろう。身体が丈夫じゃないとやってけないよ」と。
受験に備え、洋画家・青山龍水の画塾にも通っていた。習字と絵の塾は、親が行かせてくれていたのだが、画塾の先生から「増村は絵じゃなくて、工芸に進んだほうがいいな」と言われ、藝大は工芸科を選んだ。
当時はデザインと工芸が分かれていなかったから、60人ひとかたまり。増村もデザインの勉強もした。卒業時には、48人がデザイナーに、12人が教師や陶芸家や漆芸家になった。
ちょうど、日本が高度経済成長期で上り調子の頃である。増村は漆の道へ。学生のときに見た富本憲吉の作品展のおかげかもしれない。東京藝術大学の図案科出身なのに、やきものがやりたくなって、九谷焼の窯元で焼いたという初期の作品を見て、「僕にも手が届きそうに思えた。錯覚しちゃったんですね」。
ならば、自分もろくろを挽いて、素地をつくるところからやって、富本先生のようになりたい。増村の漆芸家としての本格的スタートは、ここから始まる。

学生の頃はよく山に登った。あるとき、御嶽山に向かう車窓から、漆器店という看板がやたらとある場所を通る。帰りに寄ってみると、そこは木曽漆器の産地、木曽平沢だった。1軒の店に入ると、店の奥が工場になっている。見学するうち、何日か遊んでいくことになった。これが後々まで木曽平沢と関わることになる始まりだ。
製作中の家具を見て、「おじさん、こんなアイデアもあるよ」とアドバイスしたところ、その家具が全国優良家具展で通産大臣賞を受賞。そしてその店は、漆器組合の会長の店だった。
すっかり信頼され、卒業後、非常勤の助手になった増村に、「役場の嘱託になって、木曽漆器の指導をしてもらいたい」という話がきた。教授の許可を得て、よろず相談というかコンサルタントというか、そういう副業も始まる。
噂を聞きつけた地方から、オファーが次々ときた。会津、高松など、地場産業振興の手伝いをすることが多くなる。プロデュース能力の高い人でもあるのだ。若き増村は、地場産業を調べるうち、おもしろいことに気付いた。

中/刷毛にヘラ。
右/手づくりのカンナたち。
明治初期、ウィーンやパリの万国博覧会で注目を集めた日本の美術品を輸出する貿易会社〈起立工商会社〉が誕生したのだが、その職工長だった蒔絵専門の技術者が藝大の初期の教授になっていたり、ほかにも、高岡や高松などの中等学校の先生になっている技術者もいたり。
つまり、藝大も、もともとは、殖産興業の要たる、地場産業の指導者を育成するための教育機関だったのかと気付くのである。地場産業が日本の底力になる。ならば自分も、しっかりと取り組んでみようという気持ちになったのである。
大学で助手をし、地場産業の手伝いをしながら、一方では作品をつくり、伝統工芸展にも出すという生活を続けていた。人の顔色を見ながら作品をつくるのが苦手だったので、「伝統工芸だからって、みんな何だか古くさいものをつくっているけど、自分はもっと違うのをつくる」と、挑戦的な作品をつくって出すも見事落選。

右/乾漆縄花文鉢 径34×高さ8.8cm
2度目の出品は、父も審査員のひとりだった。これまた落選。父からは、「あんなもの出すなよ。もうちょっと考えろ」とたしなめられる。そして、伝統工芸展にふさわしいものをつくらなくてはいけないんだなと理解し、つくった「朱塗提盤」が日本工芸会会長賞を受賞する。「授業で描いていたクロッキーの、女性の人体のカーブをモチーフにしたんです」。背中のカーブや腕のカーブを参考につくりあげた、柔らかいやさしい線の作品だった。
一度、賞をいただいたら、次は同じものを出すわけにはいかない。今度は、工芸科時代の「観察と形成」という授業で描いたポピーのスケッチをモチーフに、「乾漆輪花朱塗鉢」を制作。すると今度はこれが、朝日新聞社賞を受賞する。
「今、振り返ると、賞ほどこわいものはないと思います。作家殺すに刃物はいらぬ。賞のひとつもくれりゃいい、なんていう人もいるけど、見事、それにはまっちゃったんですね」。40代で大きな賞を立て続けにいただいたあと、「50代の頭ぐらいまではいい作品をつくってるんだけど、それ以降、50代は随分と迷走しました」。
何事も順風満帆に進み続けるのは難しい。

50代になって助教授になると、気楽な非常勤時代とは異なり、学生の指導も真面目にしなくてはならない立場となった。「ハングリー精神がなくなってきたのかもしれません」。作品はつくることはつくっていたし、伝統工芸展にも出品し、ギャラリーでの個展も続けてはいたのだが、納得がいかない日々が続く。
低迷の雲が晴れたきっかけは、正倉院の調査だった。調査の際に、袈裟箱の復元を依頼されたのだが、それが革素材だった。漆皮は30代で一度手がけたことがあったのだが、それきりだった。
増村は、何もないところから形をつくるのが好きで、漆の道を選んだ。だから、ろくろも回した、木も削った、乾漆もやった、麻で巻いてもみた(縄胎)……。何か、新しいことをやってもみたかったのだろう。この調査で革素材に出会えて元気が出た。こうして、自身の復活も果たしたのである。

中/漆を塗る。
右/増村紀一郎さん。作品と一緒に。
さて、それからしばらくして、学生時代からのつき合いである木曽平沢からSOSが届く。バブルが弾けて困っているというのだ。そこで増村は考えた。「漆の技術を生かして、保存修復を地場産業化してはどうだろう」。そして、教材に松本市の山車の修理を選んだ。奉加帳を回せば、修理の費用は出てくる。国宝級の修復ではなく、おみこしや山車など、有名民族文化財の修復を手がけるのである。
これが見事、的中。新しい仕事を生み出した。神社仏閣に営業に行けば、次々と依頼もある。「僕は救世主ですよ」。漆器の産地は何としても守らなくては、「我々も作家活動を続けられなくなりますから」。これから漆の仕事をしようとする人たちの福音ともなった。
45年ほど前、文化庁の伝統文化課から依頼され、文化庁の臨時職員として、漆の植林と漆かきの状態を調査したことがあった。その調査の結果を踏まえ、文化財漆協会という組織が立ち上がった。現在、理事長は増村だ。岩手に山を借り、7万本の漆を植えた。漆を未来に残していくために、また、何十年後かに誕生する後輩たちのためだ。
「漆でものをつくる喜びを伝えたい。それが後世にまで続き、新しい造形をしてくれたらと思っています」
増村 紀一郎(ますむら・きいちろう)
1941年東京都生まれ。1979年第26回日本伝統工芸展で日本工芸会会長賞受賞。2002年紫綬褒章受章。2008年重要無形文化財「髹漆」保持者に認定。2012年瑞宝中綬章受章。現在、東京藝術大学名誉教授、日本文化財漆協会理事長、埼玉県春日部市かすかべ親善大使。
photographs Naruyasu Nabeshima
text Michiko Watanabe
お帳場通信 2018 春号 掲載