人間国宝を訪ねて⑳
今泉 今右衛門 陶芸/色絵磁器

人間国宝とは、重要無形文化財保持者のこと
十四代今泉今右衛門の真骨頂ともいうべき「雪紋様」創作の原点は、ある雪の降る夜にあった。その年は、すごく雪の多い年だった。
武蔵野美術大学で金工を学びながら、今泉は何かモヤモヤしていた。金工ということ、デザインということがよくわからないままものづくりをしていたから、でき上がるものに納得ができなかった。成績も下の方をウロウロ。自分は一体、何やっているのか……悩んでいた。
ある夜、友達が雪見酒をしようというので、一升瓶を抱えて玉川上水へ。ふと見上げると、街灯の光を通して雪が降っているのが目に入った。雪が降っているのだけれど、中心に向かって吸い込まれていくような感覚を覚えた。「すっごく心を動かされたんです」。
自分は今、納得できるものはつくれないけれど、このような感動があれば、ものづくりはできるのではないか。作品は自分の思いをものに込めて生み出すものだと頭ではわかっていたが、心の底からほとばしるような思いはなかった。だから、納得できるものがつくれなかったのだ。
この「感動する思い」さえあれば、きっとつくれる。この日見た雪の風景が、その後ずーと脳裏に残っていた。

今泉家は、江戸時代は鍋島藩の御用赤絵師だった。「つまり、職人の家だったんですね」。明治になって藩の保護がなくなると、色鍋島をはじめ、古伊万里様式の磁器の一貫製造に踏み出すが「根底には、常に職人としてのスタンスがあった。今もってあると思います」。
子どもの頃からものをつくるのは好きだったが、仕事場に近づくことはなかった。仕事場のピンと張り詰めた空気、職人さんたちの真剣な表情は、子ども心にも近寄りがたいものだった。
祖母からは「うちの中で一番大切なのはお客様、次に大切なのは職人さん、家族は3番目4番目」と言い聞かされて育った。家族の生活も、仕事優先のサイクル。窯の人たちの食事が最上で、窯焚きのときの食事が一番のご馳走だった。
祖母はまた「男兄弟二人して、今右衛門の仕事ができるといいね」とよく言っていた。
「この仕事は、つくると同時に、多くの方に知ってもらうことも大事な仕事だからね」と。

右/白と白の繊細な重なりが、人智を超えた魅力を生む。
作家活動だけでなく、窯元としての重責も担う。この二つが噛み合わないと続けていけないのだ。実際、十二代、十三代も、弟が東京で販売を担当した。
大学では工芸工業デザイン学科で金工を専攻。卒業するとき、友人から一緒に金工を続けようと誘われるが、ハタと立ち止まった。
当時の現代アートはコンセプト重視。常に自分の価値観を否定しながら進んでいく。その姿勢が自分には辛かった。現代美術の考え方さえ持っていれば、実際にものはつくらなくても、人生において現代美術を実践することになるのではないか。そう思い至って、家業を手伝うことを決心する。

右/素焼きに木炭でざっくりしたデザインを描き込む。
有田に帰る前に、どこかで勉強をと、福岡のインテリアショップに、3年という約束で就職。最初の1年はものづくりがしたくてしたくて、鉛を買ってきては、アパートでできる範囲で制作に励んだ。
北九州トリエンナーレに出品したりもした。しかし、仕事が忙しくなると、思うような創作活動はできなかったが、ものづくりをしたいという気持ちが潰えることはなかった。
3年間のサラリーマン生活を終えると、学生時代から憧れていた故・鈴木治の許へ。鈴木は前衛陶芸家集団「走泥社(そうでいしゃ)」の設立者の一人で、戦後の陶芸界に衝撃を与えた人物である。現代美術を志していた自らと、多少なりとも重なる部分があるのではないかと思っていた。
ちょうど、アトリエを造り替えるときで、完成したあとなら受け入れてくれることになった。後になって、鈴木は13年間、弟子をとっていなかったことを知る。「賢者の説黙は時を待ち人を待つ」という言葉を思い出す。出会うべくして出会った二人だった。
ただ、このとき、今泉に陶芸の経験がなく、何もつくれず「役立たずの弟子でした」。ろくろの名手でもあった鈴木に「ろくろは陶芸の基本やから、ちゃんとしといたほうがいいよ」と言われ、練習を始める。「習うより慣れろや。体で覚えていくしかないもんな」と。物事の考え方も学ぶことだらけだった。

中/常に、職人に寄り添う。
右/左手に持った形状から、湯呑の蓋を彫り出していく。
その頃、今泉は、彫刻的なマケット(サンプル)をつくっては鈴木に見せていた。すると「今泉君なぁ、我々がしよるんは陶芸なんやで」とよく言われた。「先生は泥象(でいしょう)をつくられていたので、現代アートを追求されている方だという認識だった」。だから、そのときは、鈴木の言葉の意味がよくわからなかった。
有田に帰り、著書を読み直すうち「先生は陶芸を否定しているわけではなく、陶芸の可能性の中で、新しい形を追求されていたんだ」と、わかってくる。「誰より陶芸のことを理解して、創作されている方だったんです」。そう思えるまでには時間が必要だった。
有田に帰った今泉は、当初、窯から出したものを削ったり、形を変えたりして、オブジェ的なものをつくっていた。「窯の中で自然にでき上がったものを、ねじ伏せるようなやり方」で。ところが仕事をするうち、自然のよさを引き立て、一緒になりながらものをつくる。それが大事なのだと気付いてくる。
同時に、自分がやるべきことは、現代美術とか芸術ではなく「工芸」なのだと思い知る。
工芸は、西洋の芸術のように、内面の「発露」ではない。自然の素材と人との関わりから生まれてくるものだ。自然の素材と人間の存在の中間に価値観がある。また、つくり手と使い手の関わりの上に成り立つものだ。

中/本窯。両サイドから薪を燃やす。
右/父のアトリエを今も使用。
その理想ともいうべき姿が、千利休と長次郎の関係にある。利休がこんなものをつくってほしいと依頼すると、長次郎は利休が望む以上のものを生み出す。すると、利休がさらなる要求をする。そうやって、互いの美意識を高め合っていくのが、日本における工芸だ。
自分がやるべきは「工芸」。その踏ん切り、覚悟ができたことで、その後のものづくりが大きく変わっていく。
今泉は次男である。毎年正月、今泉家では、抱負を述べ合うのだが、ある年、父が「十四代をどうするか、今年1年かけて二人で決めろ」と、爆弾を投下。兄は1年考えて「つくるほうは弟に任せる」と宣言。「こっちには、選択権はなかったんです(笑)」。そうして、次男が十四代を継ぐことになる。
「伝統は相続することができない」。父の言葉だ。その代、その代が、研鑽を積む中で、時代のニーズに応えながら見出していくもの、そして挑戦していくものだ。だからこそ、今泉は常に考え、トライしては、また考える。答えは仕事の中にこそある。そして、いつも、根本の考え方は何かを考える。

中/色絵雪花墨色墨はじき四季花文花瓶の一部を接写。
右/梅の花の芯の文様化から生まれた雪花文様。
原点は何なのか。そこに立ち戻りながら、物事を見ていく。父はまた「30代には30代の、40代には40代の美意識がある。70代で、どんな美意識が見つかるか楽しみだ」と言っていた。
年を重ねることで見えてくる世界がある。若い時にしかできない仕事もある。いい悪いではなく、そのときにしか生まれないものがあるのだ。それが尊い。
襲名披露展に向けての作品を制作する中で、あと5カ月というときに、作品を見た評論家が言った。「こんなごちゃごちゃしたもの。これはダメだ。つくり直さないと」。
おっしゃる通り、自分でも納得のいかない作品だった。父と違う感じで、とか、今右衛門ならではの華やかな鍋島でないと、と理屈だらけ、作為まみれの作品だった。もう一度、原点に返って、自分の表現したいものをつくろう。そう心に決めたら、自然と作品が生まれていった。
十四代としての最初のテーマは、あの雪の日の感動を、江戸時代から鍋島に伝わる白抜きの技法「墨はじき」で表現することだった。たとえ、技術が未熟でも「思い」を込めて作品をつくることの大事。ありがたい指摘だった。
2年前(取材当時)、ある展覧会のとき、今までとはまったく違う、白の墨はじきをメインにした、白に白を重ねた菊の文様の作品をつくった。つくる時は意気揚々としていたのだが、ちょっと江戸趣味的かなと、すごく不安になる。襲名披露展以来の不安の中で出品したのだが、多くの称賛を得ることができた。
ある人に「すごく不安だった」と打ち明けると「こうすれば大丈夫というものからは緊張感は生まれないよ」と言われ、心にしみた。ものをつくるということは、不安の中を突き進むしかないのだ。作品について、賛否両論出てくるということは「やっと一人前に見てくださっていること」だ。あせっても仕方がない。反応がなくても、批判を受けても、見つけていく仕事なのである。
いま、今泉は「新緑の葉の重なり、陽の光に透けたり、重なったりすることで生まれる緑がキラキラしている風景」を描きたいと思っている(取材当時)。雪の日の感動から生まれた「雪紋様」。躍動する新緑から、今度はどんな作品を見せてくれるのか。
先代たちが築いてきた伝統に、自分ならではの感覚や独特の技法を重ねて、十四代ならではの作品を構築していく。不安とは隣り合わせかもしれないが、その姿勢が揺るぐことはない。
今泉 今右衛門(いまいずみ・いまえもん)
1962年生まれ。武蔵野美術大学では金工を専攻。2002年十四代今右衛門を襲名。「色鍋島今右衛門技術保存会」の会長として、家伝の色鍋島の技法伝承に取り組みながら、作家としては、江戸時代の「墨はじき」の技法に注目し、新たな「雪花墨はじき」を編み出
した。2014年重要無形文化財「色絵磁器」保持者(人間国宝)に認定。日本工芸会西部支部幹事長(取材当時)。
photographs Naruyasu Nabeshima
text Michiko Watanabe
お帳場通信 2017 春号 掲載